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アート作品をダメにするプレゼンテーション~歴史に残らなかった場合のマルセル・デュシャン

みじんこアート, みじん講義

アート作品をダメにするプレゼンテーション~歴史に残らなかった場合のマルセル・デュシャン

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現代アーティストとして認められるために何が必要か。村上隆氏は芸術闘争論の中で「アーティストの評価は作品が99.999%」と言っている。そうは言っても村上氏は藝大の博士号までもってますよね。やっぱり学歴とかコネとかあるんじゃないの? 昔はそう思ってました。でも、実際に自分がここまでやってきて感じるのは、やはり作品がすべて、ということ。
作品がダメなのに評価される、ということは絶対にない。しかし、作品がいいけど、自作のプレゼンがダメで評価の網にかからないことはありうると思っています。今日はダメなプレゼンについて考えてみました。

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作品のプレゼンは必要なのか

まずはそもそもの前提から。作品にプレゼンは必要なのか。アートは心で味わえばいいもの。そこに正解はない。説明してしまえばそれが作品の答えのようになってしまい、つまらなくなる。それも分かります。しかし、私は次の2つの理由から、現代アートをやる上ではプレゼンは必須だと考えます。
1)ギャラリストがコレクターに価値を伝えるために必要
2)批評家が作家の歴史上の立ち位置を伝えるのに必要

アーティストはまず、自作を世に出していくために、周りを味方につけないといけません。アーティストにとっての最初の味方はギャラリストやコレクターです。SNSでシェアしてくれたり、展覧会に来てその様子を拡散してくれる人たちも味方ですが、ギャラリストやコレクターについては、より積極的に「アーティストと一緒に戦っていく味方」だと言えます。プレゼンというのは特に、鑑賞者というより、現代アートの専門家に見てもらう時に必要なものだと言えます。
「良い作品は時代の最先端、200年先を言っているため、今の人には分からないのがふつう」これは批評家、海上雅臣さんの言葉です。じゃあ、分からないのに、なんで「良い」「悪い」が言えるのか。そこでプレゼンが必要になってくる。作品のどんなところに価値(魅力)があるのか、を伝えて味方になってもらうということです。彼らは自分以外の多くの作家、作品を見てきているので、その比較の中で評価されることになります。「同じような作品つくってるやつ、もういたな」「この路線だったらあの作家のほうが考えつくされてる」 そう思われてしまったら味方になってくれない。なにしろ、アートをやる人なんてゴマンといるわけですから。

ここで、作品が良かったとしても、プレゼンで評価が下がることがあるのか、を考えてみます。20世紀に最も影響を与えた作家とも呼ばれるマルセル・デュシャン。トイレの便器にMuttという仮名を書いた作品「泉」が有名です。

マット氏が自分の手で『泉』を制作したかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのだ。彼は日用品を選び、それを新しい主題と観点のもと、その有用性が消失するようにした。そのオブジェについての新しい思考を創造したのだ(Wikipediaより)

イケメンな感じのコメントを残してますが、「もしも歴史に残らなかった場合」のプレゼンを会話形式で考えてみました。

――デュシャンさん、素晴らしい作品ですね!大胆すぎる手法にみんな度肝を抜かれてますよ!いったいこの作品はどうやって作られたのでしょう?

(歴史に残らない感じのデュシャン、以下、D)「ああ、あれ?うちのトイレがちょうど壊れちゃって、買い替えたかったんだよね」

――買い替えたかった?

D「そうそう、新しいの買うのにも金かかるし。それなら古いのを芸術として売っちゃえば元手ができるから」

――それは現代のゴミ問題についての問題提起ということでしょうか?

D「えっ、そうなの?なんでもいいけど」

――ええっと、Muttという仮名を使われたのは?

D「ああ、アレ?ダチの名前」

歴史に残らないマルセル・デュシャンさん、ありがとうございました。うん、まったく歴史に残りそうにないですね。作家がほんとにこんなだったら、作品に価値があるとはとても思えません。

自作をダメにするプレゼン具体例

自分がこれまでやってきて、失敗したなぁと思うプレゼンをご紹介します。

1)分からなさすぎる説明

作品は分からないほうがいいというのであれば、説明も分からなくして、より分からなくしたらどうだろう、と試行錯誤してた時の失敗例です。たとえば「細胞というのは宇宙エネルギーの凝集です。私の作品は分裂の際、DNAが翻訳される瞬間の煌めきを表現した生命の再定義行為です」と言ったとする。自分で書いててよく分かりませんが、分からなくすることを目的として書いているので、当然分かりません。他人にも分からない。これだと価値づけする人たちが価値づけできないんですね。だからダメ。ちなみに、自分で分かってるけど、相手が分からないのもダメ。相手が分からないものは全部ダメです。それでは説明している意味がないですから。周りの人に話すことで、どれだけ周りに分かってもらえてるかは分かります。分かってもらえるように話し方を工夫すること。

2)倫理的に正しいことを言う

私はキラキラワード、と呼んでいますが、倫理的に正しいことを主張しすぎるのも、チープな感じになるのでダメだと思っています。つまり、差別をなくそう、世界平和、愛が大事、みんなでがんばろう、みたいなやつです。本気でそう信じている場合には、いくらでも作品に取りこんでいいのですが、これらの言葉はアートでなくてもあちこちですでに言われていますよね。現代アートは「見たことがないもの」「新しいもの」でないと評価対象になりません。現代アートの仕事が「美の概念」を広げる仕事でもあるからですね。これらをあえてアートに取り込むのであれば、なぜ世界は平和であるべきなのか、平和とは何か、世界とは何か。深い考察がないと説得力が出ません。

3)大口をたたく

「この作品は世界を変えます」「美の歴史を塗り替えるでしょう」
いや、ぜんぜん言っても構いませんが、その場合は相応の論拠が必要ですね。これこれこういう理由で21世紀のアートとは○○です、と。ただ、よほどの知識がない限り、専門家の前でこの論を展開するのはリスクが高いです。特にまだキャリアがない場合は。歴史に残すつもりでやっていくことは大事ですが、それなら「歴史に残るんです」を主張するよりも、あくまで論、「なぜ残るのか」を主張する。そのうちに「これは歴史を塗り替えるんじゃないか」と周りの人が言ってくれ始めたら、彼らの引用として主張するのが良いですね。特に、歴史に残るかどうかを評価していくのはアーティスト自身の仕事ではありません。あ、世の中にはアーティストとギャラリストを兼ねる人もいますし、自分で批評家とアーティストを兼ねてもOKですよ!

4)詩的になりすぎる

プレゼンはあくまで作品の説明です。「細胞、それは生命の最小単位。そこに描かれるのは生命の躍動、魂の宿り木」みたいなのは説明じゃないですね笑。ポエっちゃってます。展覧会の説明文なら良いんですけどね。作品を見に来る人たちを別の角度から刺激するという意味で。今回の記事では、あくまでアート関係者に説明する意味でのプレゼンについて紹介していますので、そこはお間違えなく。

5)説明がない

こちらは論外ですね。前述のように、プレゼンはまず、アート関係者に味方になってもらうためにするものです。説明する機会があるというのは、相手が興味を持っているということ。そこで「語ることは何もない」と言ってしまうということは、自分でそのドアを閉じてしまっている。同時に、何も説明しないと「結局、なにも考えてないんだろう」と誤解される原因にもなります。

すべて説明してしまったらつまらない?

自作に対する考えを聞かれるままに全部語っていいものか? 何もかも言葉で語ってしまうなら、そもそも作品なんていらないのでは。昔、これについて考えたことがあります。現在の結論は「全部語る」です。まず、ずーっと作品について考えているので、現在、すべてのことを語ったとしても、1か月後に語れることはもっと増えてるはずです。だから、今のすべてなんてたかが知れてる。話してフィードバックをもらうほど、自分でも考え直すことが増えるので、話す機会があれば、話せるだけ全部話したほうがいいです。そもそも、語り尽せるほど聞いてくれる人は、かなり自分に興味をもってくれてる人です。そんな人に出会えること自体が幸運。ふつうは全部なんて聞いてくれません。
じゃあ、作品自体はどうでしょう?全部話してしまったら、作品はなくてもいいのでは?これも問題なしです。理由は、どんなに言葉を尽くしても、説明の言葉が作品を超えることはないからですね。それはやはり、作品がもつ情報量は言葉をはるかに凌駕するからです。百聞は一見に如かずという言葉もあるとおり、プレゼンはあくまで「説明」。詩や俳句のような、短くても情報量の多い「表現」とは違います。それに対して作品には視覚的な情報だけでなく、匂いや触感、音などさまざまな情報を含みます。どんなに言葉の使い方がうまくても、「作品説明」が「作品」それ自体を超えることはありません。逆に言えば、作品説明が作品を超えちゃうようなら、その作品は相当クオリティが足りてないです笑。

現代アートは、価値が非常に流動的です。雑貨と違い、買った後にその作品の価格が上がったり下がったりする。しかも1千万倍とかになる可能性もあるので、その振れ幅はかなり激しいです。そういう特殊な商品なんですね。ということはつまり、悪い人がいて技術力の高い作家を捕まえ「俺がお前の作品を価値づけしてやるぜ」と、無理くり推すこともできてしまうんですよ。そして安く買って高く売れたらその差額をウハウハと懐に入れると。海外だとアートを買うことが節税にもなる国もあるし、アーティスト支援ってそもそもイメージがいいですよね。でも、誰かがつくったプレゼンの上に乗っかってるとしたら、そこに自分の真実はどこまで乗っているでしょう。それで下手に売れてしまったとしたら、その後、作品を通じてウソをつきつづけなくてはいけなくなってしまう。そういう流れに飲み込まれず、自作を自分で守る、という意味でも、自分の作品の説明をする、最初の価値づけを「自ら行う」というのはとても大事なことなのです。

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