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未来は予測するのではなく創るもの~専門家の予測は当てにならないという話

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未来は予測するのではなく創るもの~専門家の予測は当てにならないという話

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現代アートをやる上で、哲学というのは本当に多くの示唆を与えてくれるのだなぁと感じています。今日も山口周さんの「武器になる哲学」より。未来予測について。

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未来は予測できるのか?

「今は苦労しているけど、このまま諦めずに頑張り続けられれば、20年後には偉大なアーティストとして世に知れ渡っているよ!」と占いババが言ってくれていたら、人生はもっと楽な気持ちで生きられるのに。いや、20年間コールドスリープする方法を考えるのに。そう思ったことはありませんか?私はしょっちゅうです。
未来について、パーソナルコンピューターの父、アメリカの計算機科学者のアラン・ケイはこんなことを言っています。

The best way to predict the future is to invent it.
未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ。

参考リンク  武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50

どんな未来を創りたいか

本書では、コンサルティング会社の未来予測が頻繁に「外れる」ケースを紹介し、『専門家の予測というのは外れるのが当たり前』だと言及しています。それよりも、どんな未来になってほしいかを考え、それをビジョンとして行動したほうがいいと。それによって、望む通りの未来を「創る」ことができるのだと言っています。

では、どんな未来を創りたいのか。私は名前のない未来を創りたい、と思っています。
解剖学の養老孟司先生の著作に以前、解剖というのは「名前をつけることなのだ」と書かれていたことがあります。しかし、それは名前をつけることで分かった気になるという弊害も生むと。そもそも、「目」と言われても、はっきりと目だけを区切って取り出すことは不可能で、すべては連続しています。
同様のことは言語学者のフェルディナンド・ソシュールも言っています。私たちは言語によってしか世界を認識できないが、そもそもの言語がもつ意味に縛られてしまう、と。言葉がないと世界を把握できないのに、言葉があると、言葉の限界にとらわれてしまう。そういう矛盾。語彙が豊かであるほど、たとえば「哀しい」だけでなく、物悲しい、沈痛、悲痛、うら悲しい、哀れ、心悲しいなど、豊かに世界を認識できるようになるが、同時に結局のところ、言葉の制約からは逃れられないのだと。

獣医大学時代、解剖学の研究室に所属していたこともあり、養老先生の著作はよく読んでいました。そして、この「名前をつけるということで分かった気になる」ということに衝撃を受けたのです。名前(言葉)がないと、何かを明確に伝えるには不便になる。しかし、名前があるせいで、「目」は「目」でしかなくなる。
私には小さい頃から、自分の名前に対する違和感があります。自分の名前と認識はできるのですが、どこか自分のものではないというような、腑に落ちない感覚がある。これは、母が私の名前を気に入っていなかったことが関係しているかもしれません。母は、私に違う名前をつけたかった。しかし、実際に名前を付ける時に、母の考えた名前は考慮の対象にならなかったのだという。この話を私は何度か聞きました。母はもしかしたら、私を現在の名前で呼びながら、その名の裏に、本当につけたかった別の名を隠しもっていたのかもしれないとも思うのです。
それと、私は昔からヒトの名前を本当に覚えられません。同じような人は多いだろうけれど、とにかく、たとえば自分をアーティストとして仕立て上げてくれた美術批評家の海上雅臣さんなど、お世話になった度合に関係なく忘れてしまう。時に親の名前も思い出せなくなるくらいなのです。名前の覚え方テクニックみたいなものを試したこともあったけど、結局は身につかなかった。今の私は、自分は生まれた時から「名前を重要視していない」のではないかと疑っています。

名前のない未来はどこがいいのか

便宜上の名前は必要でしょう。しかし、名前の所有自体は、すでにかなりあいまいになっています。私たちは織田信長の名前を使って勝手な物語をつくっていいし、「ピカソ」という名前のおかげで、バルセロナの町がある程度潤っているのも確かです。名前には著作権、肖像権が絡んできますが、そのあたりもすでにあいまいです。無料で使える素材が増え、無料で読める本や漫画もあり、知識だって無料で手に入る世の中。みんなのために、みんなでつくる。特定の名前によらない世界の実現が始まっているのです。
現代アートの世界で考えてみると、作品に価値があるのか、作家の名前に価値があるのかは、かなり疑問が残るところですよね。ぶっちゃけて言えば、作品そのものより「有名作家がつくったから」という名前の価値を重視されているところもあるでしょう。人々はいつから、「カボチャの絵を見た」ではなく、「草間彌生の絵を見た」と言うようになるのでしょう。それならば最初から、名前そのものを作品としてしまったらどうか。
私は昔、自作にサインは入れていませんでした。作品を一個の私と対等な存在と捉えていたため、私の名前が入る違和感もあったし、名前が入ることで、作品の上下左右が固定されることを嫌ったためです。しかし、最近は事前にサインを入れることもあります(入れてないことの方が圧倒的に多い)。私は最終的に、Ouma(オーマ)というアーティスト名を作品にしようと考えています。それならば、作品としての名前がどこかに入っていようと、さして問題がない、というのがサインを入れ始めた理由です。(ただ、基本的には入れないことは変わっていません)。また、将来的にはそれをコピーライトフリーにするつもりでいます。現在の世界において、知名度のある名前、というのは、それだけで価値があります。自分の意見を正当化するために、著名人の名前を使ったり、権威のある組織の名前を使ったりしたことは誰にでもあることでしょう。
名前はその人のそれまでの実績や信頼があってこそ価値があるのだし、死後の利用であっても、人格権侵害になるとすれば親族が使用差し止めを要求することができます。もし、生きている有名人の名前がコピーライトフリーで使えるとしたら、どうなるのか。あっという間に名前に対する信頼度が下がるだけなのか。それとも、誰かが今日食べるのに役立つささやかな共有財産の一つになるのか、あるいは全く思いもしなかったアイデアが生まれるきっかけになるだろうか。
これはまだ、単なる未来についての妄想にすぎません。しかし、もともと本名ではないOumaという名前が、なにかの形で「みんなの名前」にならないだろうか、というのを私はずっと考えています。どちらにしろ、名前が表すものの境界は、これからさらにあいまいになっていき、時に拡縮していくはず。それならば、「有名作家の作品」が高騰しがちな現代アートの中にそういう動きがあってもいい。

創った未来はいつ実現するのか

まっ平らだった地面が丸くなったり、お金によるやりとりが始まったり。私たちは歴史の中で、さまざまなパラダイムシフトを体験している。本書では、パラダイムシフトには長い時間がかかると伝えています。異なるパラダイム間では交流も交換もない、と。だから、どちらかが死に絶えることでしかパラダイムシフトは成り立たないと。
印象派の活動開始は1860年頃。100年以上経って、印象派の手法は世界全体に馴染んだと言えるでしょう。レディメイドは1915年。100年は、これまでの概念をもった人たちが死に絶えるには十分な時間だろう。しかし、私はこれからのパラダイムシフトは個人の中にしか起こらないのではないかと考えています。それはインターネットの影響です。かつての概念や誰かの主張がネットの中に残り続け、そのうちにアクセスが減ることで静かに淘汰されていく。しかし、消えるわけではない。どこかに残っている。そして、文書による記録と違い、ひょんなことから全く予想もつかなかった人がその概念にたどりつくこともありうる。そのまま、点描画のようにさまざまな概念が完全に消えることもなく、見えない隣人のように存在し合うようになる。それは同時に、隣のドアを叩くだけで自分自身が違う世界を垣間見れるということを意味する。

どんな未来になるか、誰も予想がつかない。私たちにできることは、創りたい未来を発明することだけ。
ところで、あなたの未来はどうなってほしいですか?

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