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Oumaがもしも書家だったら、現代アートの世界にどう攻め込むかを真剣に考えてみた。

みじんこアート, みじん講義

Oumaがもしも書家だったら、現代アートの世界にどう攻め込むかを真剣に考えてみた。

書家の山本尚志氏と話していて、非常に刺激を受けている。こんなに真剣に、率直な疑問、全く違う意見を正々堂々とぶつけて、ごまかすことのない直球の意見が返ってくる作家は他にいない。井上有一に次ぐ存在として書をもって現代アートの世界に推されている山本氏。
私は書家ではないが、その意見にはいつも刺激をもらっている。また、山本氏は私がまだ現代アートがなんだかも分からなかった段階から、時間をかけて指導してくださった恩師でもある。しかし私がもしも書家だったら、山本氏とはまったく違う戦い方をする。今日は私が書家だったら、現代アートとして自分の作品を認めさせるためにどう攻めるかを真剣に考えてみた。

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現代アートのメインストリームに入ることを考える

まずは、アートの歴史のどこに配置されたいかを考える。これは実は考えるまでもない。ど真ん中のメインストリームだ。
印象派や野獣派、キュビズム、アルテ・ポーヴェラ(美術用画材を使わない)、レディメイド(概念をつくりこむ)。その後のアーティストが影響を受けざるを得ないメインストリームに入るにはどうしたらいいかと考える。
そのつもりでいかないと、そもそもどこにも差し込んでもらえずに、数十年で消える可能性が高いからだ。


井上有一の取り扱いギャラリーであるUNAC TOKYOでのOuma初個展(2013)山本氏に使う筆と墨を選んでもらった。

1)書の定義を決める

すでにある程度の鍛練を積んだ書家、Oumaがまず最初にやることは「書」とは何か、自分なりの定義を決めることだ。
これは残念ながらエセ書家Oumaにはすぐに思いつかない。なので、この定義自体は山本氏の書の定義をそのまま流用させていただくことにする。つまり「書は言語芸術である」ということ。山本氏は以前、「言葉が書いてあるものは私にとって、全て書なのです」とおっしゃっていた。これを書家Oumaが設定した書の定義であると仮定する。
では言葉とは何か、そこをさらに深める。書家Oumaはさらに、言葉を「伝達・記録・学習」の手段であると考える。

2)現代アートとしての作品の基本コンセプトを決める

ここで書家Oumaは伝達手段としての言葉の在り方に着目する。
Amazonが2014年に「注文前に発送する」特許を取ったことをご存じだろうか。現代は日々の行動の積算によって、次に起こる行動が予測できる時代だ。「この本を買った人はこんな本も買ってます」をつい見てしまう人は少なくないはず。
なぜ次の行動の予測がつくのか。
それはそこに「感情」が動くからだ。そしてその「感情」の在り方は、出身国や文化によらず、共通して理解することができる。感情は身体表現、身体の動きに表れる。事実、まったく言葉の通じない場所に初めて行っても、相手が騙そうとしているか、親切にしようとしているか、その身体の動きを見ればだいたいの予測がついてしまう。
それならば、感情が言語の代わりを果たすのではないか。感情の在り方が行動に現れ、明らかな「言葉」として発さなくても、必要なものを引き連れてくる。
初デートで嬉しい気持ちがネットショッピングのサイトをクリックさせ、画面を見ているだけのつもりだったのに、注文ボタンを押した時にはすでに家の前にデートで着る服が届いている。
「感情」という言語が、言葉を介さずに伝わった証だ。我々はそういう時代を生きている。この感情こそ、自分が認知している自分自身を超えて行動を起こさせるものである。伝達の起点は感情である。
また、「感情」を感覚的に表す上で、オノマトペの多い日本語の感性が非常に優位に働く。これらを踏まえた上で、書家Oumaは感情は言語である、これを表現することが新たな書の形であると主張する。

参考リンク  アマゾン、消費者の注文前に発送する特許を取得

3)具体的な作品に落とし込む

では感情を具体的な作品に落とし込むにはどうするか。
書家Oumaは「音」と「図形」を感情を表す言語として用いる。
下記の2つの図形を見て、どちらが「ギッピシ」で「ほわーお」だか、ほとんどの人が直感的に分かるはずだ。「ギッピシ」も「ほわーお」も初めて聞く言葉にも関わらず、感覚的に分かる。

こういった感性を生かし、「ちゅいいいいーん」みたいな効果音と、これらの図形を合わせ、大まかな喜怒哀楽だけでなく、細やかな感情までも表現していく。「彼氏だと思ってた人に本命の彼女がいたことを知って相手を罵りに行く直前の気持ち」などだ。さまざまな国で試作を繰り返し、作品の精度をあげていく。ある時にはモンゴルで録音した馬の駆ける音が、我も忘れるほど激高した思いに組み込まれるかもしれない。こうして音と図形による新たな言語芸術としての「書」を創りこんでいく。
この「図形」自体は、「モノにモノの名前を書く」という山本氏の書の在り方を踏まえている。書家Oumaの場合は図形そのものを言語の一部として使う。
これが、現代アート書道の歴史、先人がつくった「文法」を引き継いでいるポイント。山本氏はそもそも、書家・井上有一に大いに影響を受けているので、その流れを引き継いだことになる。

4)書家であることをいったん捨てる

作品について興味をもってもらえるようになったと仮定し、海外への展開を考える時期にきた。
ここで私は書家という自身の定義をいったん捨てる。海外で展開する場合には新たな言語の在り方を提唱する、Visual and audio artistとして活動し、書家として自身を定義しない。それは、書家という定義が海外で現代アートをやる上でハードルになるのではないかと考えるからだ。理由は「書家」という定義を入れることで、「書がなぜ現代アートになっているのか」という説明を作品の前に挟むことになるからだ。これが作品そのものを理解させることから遠ざけると懸念する。

印象派に影響を与えたという浮世絵がアートの歴史のメインストリームにいるかと言えば、そういうことはなく。浮世絵自体はファンが多くコレクションもされているとはいえ、それはあくまで「参考文献」扱いではないかと。
ほかに、ジャン・デュビュッフェが1945年頃に考案した言葉で、「生の芸術」「加工されていない芸術」を示す「アールブリュット」という言葉がある。これは定義としては「芸術的教養に毒されていない人々が制作した作品」なので、美術の教育を受けていない作家の作品はすべてこれに当たる。しかし、実際は精神障がいなどをもっている人たちがつくる作品、他者の評価を一切気にせず、執拗に描きつづける作品を指すことが多い。
アウトサイダーアートは、シュールレアリストたちに「自分の作品は彼らと同じほど精神的に自由なのだ」と彼ら自身の作品の良さを誇示するための道具として使われていた。アウトサイダーアートの作家たちの作品自体が素晴らしいという評価したのはデュビュッフェの出現を待つ必要があった。
このように、書が書のまま勝負しようとしたとき、どこか亜流である、メインストリームの素晴らしさを伝える「ツール」としての扱いに留まってしまうことを懸念する。

参考リンク  社会規範からの完全な自由~瞑想の可能性を考える~ 生の芸術~社会の規範の中で規範に囚われない芸術の姿~

いや、ちょっと待て。浮世絵もいまだに取引されてる。ニューヨークマンハッタンにはRONIN galleryという浮世絵や版画を専門に扱うギャラリーもあるくらいだ。アウトサイダー・アーティストについては、アドルフ・ヴェルフリの回顧展が2017年に日本で行われている。ぜんぜんちゃんと評価されてるじゃないか。
そうかもしれない。しかし、もし日本文化感が色濃い「書」を前面に推していこうとしたら、「エジプトのアート」「アフリカのアート」「ミクロネシアのアート」のように文化くくりで囲われ、そのフィルターのために「現代アート」として創りこんでいる部分を正当に見てもらえないんじゃないかと書家Oumaは懸念するのです。
オリンピックで日本が勝つとルールが変わる、みたいな噂だってある。もちろん、そういうことが本当にあるならおかしい。でも、現代アートは西洋のルールで行われている遊び。それでもそこでやりたいのであれば、そのルール内でなるべく正当に戦っていける方法に自分を合わせる。あらゆる「いびつさ」も含めて飲みこむ。でなければ、最初から現代アートの世界でやらない。
そもそも書は英語だと「Calligraphy」。Calligraphyで検索をかければ、ネットではフォントアートが多数出てくる。「イラストレーターです」と名乗りながら現代アートの世界で正当に戦っていけるだろうか?それと同じことがCalligraphyで起こる可能性があるのでは?
書家Oumaは何よりもまず、現代アートとしての作品を見てもらいたい。そのための杞憂はなるべく減らす。

参考リンク  RONIN gallery アドルフ・ヴェルフリ、日本初の大回顧展がついに東京へ!

5)実は書の要素なのだ、というのを小出しにして認めさせる

「感情を言語として表した」作家として、世界への認知が広がってから、実はこれは書がベースになっているというのを小出しにしておく。日本向けには初期から打ち出す。日本文化としての「書」がなんらかの形で評価されたのであれば、応援してくれる人はやはり日本に多いと考えられるからだ。
「ジャパニーズアート」と思われるような配置狙いは、私が現代アート書家ならしない。そういった位置が確立されてしまった場合、次の書家がそのフィルターを脱するのにまた苦労することになるから。つまり、「ジャパニーズアート」の枠に囲われ、それだけで「伝統文化」でしょ?の扱いをされてしまう可能性があるから。それは守られているようでありながら、サナトリウムのようなものだと私には思える。

実のところ私は書家ではないので、実際にはこのまま作ってもうまくいかない。ただ、1)2)3)の順で進めていきながら、書家と言うか言わないかを状況によって変えていく。
山本氏は後進の育成にも熱心で、SNSでは多くの情報を無償で提供している。現在、書家として現代アートを志すのであれば、氏に見つかるのが最も早いし確実だ。ギャラリーKEGONでは若手の作品も次々に公開、彼らの存在をアピールし続けている。だが、もし私がまだまだ発展途上の段階で氏に何かあったら。すべてゼロからやり直しにならないだろうか?
私なら他に戦っていけるルートを並行して探しておく。

参考リンク  KEGON GALLERY 山本 尚志(Yumiko Chiba Associates)

山本氏は以前、「現世利益など考えてはいけない」という話をしていた。
しかし、私自身は、自分が生きている間に自作がどこまでいけるのか見たいと思っている。それに、現代はインターネットによって圧倒的に「見つけやすい」「見つかりやすい」時代になっている。逆に言えば、自身で見つかる努力をしなかった場合、見つけやすいほかのものに流れてしまい、死後に見つかることすらなくなってしまうかもしれない。
どちらにしろ、私は現代アートの作家として、生きている間に世界中で発表したいし、そうなるためのあらゆる方法・可能性を、自分で模索する。
ところで、あなたは?

合わせて読みたい  現代アートについて考える~初心者の第一歩から海外展開まで役立ち記事まとめ


みじんこは、現代アートの作家として世界で活躍したいです!ヽ(=´▽`=)ノ

みじんくん と みじこちゃん

「世界中で発表したいよっ」
「いろんなアートを見たいよっ!」

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