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ピカソの愛人たちはほぼ自殺!?恋人ドラ・マールから届く苛烈なラブレター

  • 8月 25 / 2017
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ピカソの愛人たちはほぼ自殺!?恋人ドラ・マールから届く苛烈なラブレター

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ピカソの愛人であり、「泣く女」のモデルにもなったというドラ・マール。大作「ゲルニカ」の制作に立ち合い、その制作過程を写真に記録している。「ピカソ…やっぱりあいつは悪魔だった」は彼女の悲痛な想いを込めて書かれた告発状である。※2020年2月に確認したところ、書籍のURLが変わって違う本になってしまってたので、書籍へのリンクを削除しました。

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ピカソの愛した7人の女性

「愛した」というより「弄ばれた」という表現のほうが的確かもしれない。コレクションを見るように扱い、女性たちを自分のために争わせたピカソ。ピカソの前に新しく若い女性が現れれば、それまでの恋人はボロ屑のように捨てられていく。

第1の女性、人妻フェルナンドゥ・オリヴィエ

「青の時代」に出会い、「バラの時代」に向かわせたオリヴィエ。有名になる前のピカソを知る唯一の女性で、本名はアメリー・ラン。18歳の時に結婚した男に虐待を加えられ、パリに逃げた際に名前を変えた。生活のためにアートモデルとして働いているうちにピカソと出会い、その後はピカソ専属のモデルに。画家として成功したピカソは彼女への興味を失い、1912年に破局。前夫と正式に離婚していなかったために、財産を得ることができず、そのおよそ20年後の1930年に「ピカソと友人たち」という回顧録を出版。すでに有名だったピカソの回顧録ということで本は売れたが、ピカソが弁護士を雇い出版差し止め、その後はピカソから生活援助を受けながら暮らす。

参考リンク  フェルナンド・オリヴィエ 第87回 パブロ・ピカソ(その二)美しく独創的だが、怠惰で掃除もしない。作風を変えさせた最初の恋人とは—

第2の女性 薄命のエヴァ・グエル

キュビズムの時代にピカソに出会ったエヴァ。Ma jolie (My pretty girl) に影響を与えたと呼ばれる彼女がピカソに会ったのは1911年。結婚の話もしていたが、1915年に結核で亡くなる。

参考リンク  Biography of Eva Gouel, Lover of Pablo Picasso Pablo Picasso”Ma Jolie”(MOMA)

第3の女性 初めて結婚したオルガ・クルロバ

ピカソが36歳の時に初めて結婚したのがオルガ。この時オルガは26歳。ピカソにとって初めての子になる息子パウロを生むが、結婚して4年で疎遠、愛人マリーの妊娠を機に南フランスに移住してピカソとは別居。オルガはピカソとの離婚を拒み、フランスの法律による財産分与の問題もあったために、ピカソも生涯、オルガとは離婚しなかった。オルガは1955年に自殺。息子は薬物中毒で死亡。さらにその息子であり、ピカソの孫パヴェルリートはピカソの葬儀に訪れるが参加を拒否され、遺産のもつれにより自殺。パウロの長女、マリーナ・ピカソは2016年2月5日にピカソ作品180点以上を出品、1230万ポンド(約20億8578万円)で売却。遺書を残さなかった祖父のために親族が遺産のために争い、家族は惨めな人生を強いられたと語っている。

参考リンク  ピカソの作品と一緒に7人の女たち ピカソの孫娘「祖父のせいで家族は惨めな人生」(産経ニュース)

第4の女性 17歳でピカソと出会うマリー・テレーズ・ウォルター

1927年頃、マリーが17歳、ピカソが45歳の時に二人は出会う。当時まだオルガと結婚していたピカソと不倫関係になり、1935年に娘マーヤを出産。1935年にピカソに新たな愛人ドラが出てきたことを機に破局。1977年に自宅のガレージで首を吊って自殺した。(ピカソの死亡は1973年91歳)

参考リンク  【アートモデル】ピカソ・モデル「マリー・テレーズ・ウォルター」

第5の女性 ゲルニカ制作に立ち会うドラ・マール

シュールレアリストの写真家として自立しており、前衛アーティストたちとの付き合いもあったドラ。ピカソの母国語であるスペイン語で会話ができ、芸術や哲学、政治などについても議論ができるほどの知的な女性で、ゲルニカの制作にも立ち合い、その過程を写真に記録した。「泣く女」のモデルにもなったが、21歳のフランソワーズ・ジロが現れたことによりピカソと破局。精神病院に入院。手切れ金として南フランスの館を残っていた作品ごと譲り受けるが、憎みつつも愛するピカソとの思い出のつまった作品を売りに出すことができずに困窮する。ドラの死後、所蔵品が競売にかけられ、当時の金額で31億5000万円以上になったという。

参考リンク  パブロ・ピカソが愛した7人の女性、作品に与え続けた大きな影響

第6の女性 ピカソを捨てた唯一の女フランソワーズ・ジロー

1943年にパリで出会ったジローはこの時21歳、ピカソは63歳だった。レストランでドラと一緒だったピカソに、同じく画家志望の友人と共に声をかけられたことが出会いのきっかけ。1946年にピカソに懇願され同棲を開始、南仏プロバンスに引っ越してからジローは息子クロード、娘パロマを出産。1953年に横暴なピカソの態度に耐えきれなくなったジローは2人の子どもを連れてパリに戻る。2年後に画家リュック・シモンと結婚。「LIFE with PICASSO」というピカソとの生活を綴った暴露本も出したがピカソに訴訟を起こされる。3審ともピカソに勝訴した。その後は医者と再婚し、現在はカリフォルニアに在住。現在も存命で作家活動を続けている。

参考リンク  フランソワーズ・ジロー 【アートモデル】ピカソ・モデル「フランソワーズ・ジロー」

第7の女性 最後の女性ジャクリーヌ・ロック

ピカソ最後の女性はピカソ72歳で出会ったジャクリーヌ。ピカソが91歳で亡くなるまで一緒にいた2番目の妻で、出会った当初は26歳。すでに結婚して子どももいたジャクリーヌは、ピカソの最初の妻オルガが亡くなって6年後の1961年に結婚。これまでの恋人たちの中で最も多い400点のポートレートを残しており、首を長く伸ばして描かれているのが特徴的。
1973年にピカソが亡くなると、これまでの愛人たちやピカソの子どもたちとの間で財産権争いが勃発。ジャクリーヌは葬儀出席を妨害するなどして遺産を守る。その後、1986年に59歳でピストル自殺した。

参考リンク  【アートモデル】ピカソ・モデル「ジャクリーヌ・ロック」

作品のインスピレーションを女性から得ていたと言われるピカソ。遺した財産の巨大さゆえに、親族の間での争いを引き起こす原因にも。しかし、フランソワーズ・ジローがまだ存命というのは興味深いですね。ぜひ、彼女の作品も見てみたいです!

合わせて読みたい  現代アートについて考える~初心者の第一歩から海外展開まで役立ち記事まとめ


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