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自分で考えることをしない一般人ほど恐ろしい悪に手を貸すという話~ミルグラム実験

みじんこレビュー, みじん講義

自分で考えることをしない一般人ほど恐ろしい悪に手を貸すという話~ミルグラム実験

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アドルフ・アイヒマンという将校がいます。アウシュヴィッツ強制収容所の元所長で、ユダヤ人の大量虐殺を指揮し、最終的に絞首刑に処されました。捕まったアイヒマンはびっくりするほど普通の人だったようで、なんでこんな普通の人に、あんな残酷なことができてしまったんだ!と驚かれたようです。
今日はブックレビューより、山口周さんの「武器になる哲学」より、「悪の陳腐さ」をご紹介です。

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悪の陳腐さ

アメリカの哲学者(政治学者、評論家でもある)ハンナ・アーレント。このアーレントさんがアイヒマンの裁判を傍聴した本が「エルサレムのアイヒマン」。副題が「悪の陳腐さについての報告」です。アイヒマンにはユダヤ民族への憎悪があったわけではなく、ただ単に命令に従っただけ。アーレントさんは最終的にこのようにまとめています。

悪とは、システムを無批判に受け入れることである。

参考リンク  武器になる哲学(山口周)

誰でも残酷なことができてしまう

そうはいってもそんな虐殺の指揮なんて、普通の人はできないでしょ、って思いますよね。
アメリカのイェール大学で行われた実験で「ミルグラム実験(アイヒマン実験ともよばれる)」というものがあります。教師役と生徒役になる人をそれぞれ募集し、生徒役が問題を間違えるたびに、教師役が生徒役に電気ショックを与えるというもの。(実際には生徒役はニセモノで、電気ショックが与えられている演技の声だけが先生役に聞こえるようになっている)
先生役は途中でためらいを示すようになりますが、実験責任者が実験の続行を促すと、最終的には26/40人(60%)の被験者(先生役)が生命の危険のある最大450Vまで電圧を上げました。
「あなたに責任はない」と明言されたり、電圧を読み上げるのみ、になると、この比率は100%(全員が最大Vまで電圧を上げる)にまでなるようです。逆に、「これ以上は危険では」という意見を言わせるニセ研究員を配置すると、もっと早い段階で実験中止する人が増えるそうです。


アイヒマンが公判中に繰り返していたのは、「私はただ命令に従っただけです」ということ。
まさに、ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」。それを実行するとどうなるかまでは考えなかった。しかし、同じ状況にあった時、自分たちはNOと言えたのか。今は、いろんな手段がある。だから、こういう差し迫った状況になりそうな時は「ほんとはやりたくないよ」と周りの人につぶやく勇気をもてたらいいですね。同時に、簡単に炎上拡散する時代なので、小さな声を増幅させる前に、増幅させた時にどうなるかを考えること。
だいじょうぶ、すぐに忘れる時代でもあるから、何かを失敗してもすぐにやり直せる。大事なのは、自分の言葉で語ること。同時に、その言葉が本当に自分の言葉かどうか、吟味すること。

日本は相対的に権力に従いやすい

オランダの心理学者ヘールド・ホフステードが文化的差異を6つの次元についてまとめており、その次元1が上下関係の強さとなっています。・・・よく分かんないですね笑。簡単にいうと、権力に従いやすいかどうかを数値化したんですね。日本は54。アメリカは40。数値が高いほうが権力に従いやすい(逆らえない)となります。高い国としては、マレーシア、スロバキア (104)、ロシア (93)、中国 (80)。低い国としては、フィンランド (33)、スイス (ドイツ語圏) (26)、オーストリア (11)。日本は微妙に中間くらいですが、先進7カ国(フランス(68)、日本(54)、イタリア(50)、カナダ・アメリカ(40)、ドイツ・イギリス (35)の中では高い方になります。(個人的にはフランスが高いことにびっくり)
あなたは学校の先生や会社の上司に「それは違うのでは?」って言えますか?私は中学時代にすごく理不尽な扱いを受けて、でも(優等生キャラだったせいで笑)先生に反抗できなくて反論しなかったことがあります。相手が誰でもなんでも言えるよ!っていう人でも、どこか心の中にためらう部分がないでしょうか?
もしすごーく偉い人、あるいはいい人で知られる有名な俳優が、「終わればあなたは1億円がもらえるし、誰にもあなたがやったことは分からない。それにすべての責任は私が持つ」と言ってきたら、町中で銃を乱射できるでしょうか?周りの人がみんなすでにやってたら?殺す相手のことは見えなくて、ただビルの上から銃を撃てばいいだけだったら?あなたは命令には逆らえない、絶対にやるべきだ、と主張されつづけたら?
・・・実験を基に考えれば、私を含むほとんどの人が、撃ってしまうのです。同時に、周りに「これ、やばくね?」と言い合える相手さえいたら、簡単に良心に従って留まることができます。

参考リンク  次元1:権力格差の違い (Power distance: PDI指標)

考えずに何かに従うことは楽です。頭のいい人がAと言ってるなら、それを正しいとして生きるほうが楽です。そのほうがマジョリティでいられる。自分の意見がなくても、天才芸人の○○さんや天才科学者の○○さんが言ってたよ、と言えばだいたいの人は黙る。自分の意見をもたなければ批判もされなくて済む。傷つかなくていい。
でも、あらゆる意見はどこかで誰かを傷つける。正論っぽい意見、世界平和っぽい意見だってそれは同じこと。「自分で考える力をつけよう」なんて誰でも言ってる意見で、もともと私のオリジナルなわけじゃない。その意見しか出ない段階で、そもそも自分が考えてないだろ、という結論になる。
少なくとも私は、私の大切な人たちが悪に染まりそうな時に、ちょっとおかしくない?と言える人でありたいし、私の大切な人たちにもそうやって私自身を止めてほしい。私たちは間違う。だから失敗しながら、それでもみんなが快適な状態をちょっとずつ模索していけたらいい。

現代アートの役割は「考えさせる」こと

現代アートの価値の一つが「その作品によって議論が巻き起こること」とされています。そして、現代アートは社会性(社会との接点)がないといけないとも言われる。ここが感性のみで創られる一般のアートとの違いで、重要なポイントです。アートをもって、議論が起こるということは、その問題についてフォーカスさせることでもあるのです。それによって社会に貢献しているということ。考える人を社会に増やすということ。
日常を生きていて、考えることが習慣になっている人はどれくらいいるでしょう。考えたつもりで、誰かの意見をコピってるだけなことはないでしょうか。アートは自分の「思考力」を鍛えるのに最適なのです。「よく分かんない」と感じたなら、なぜ、自分がよく分かんないと感じたのか、具体的な言葉にすること。気持ち悪いと感じたのなら、なぜそう感じたのか、色合いが怖い、書かれてる物がグロテスク、など言葉にしていく。アートを見て感じたことは、自分の感性です。その感性を言葉にしていくことで、自分なりの思考力が鍛えられます。出てきたことに「なぜ?」をかぶせて、深めていく。同時に、言葉という形で自分の外に出すことで、自分の意見を客観視できます。


ちょっと話はそれますが、以前、戦争関連の話題をドイツ人としたことがあります。その時「なんで日本人はいつもドイツ人やナチス、ユダヤ人を例に使うんだ」と指摘されました(具体的には手塚治虫の「アドルフ」が面白いと勧めたところ、そういう返答があったのです)。ドイツでは1年をかけて、戦争の時に何が起こったのかを学ぶのだとか。日本の特攻隊は最初、自分たちが行くのが嫌で、韓国人捕虜たちを行かせたという噂もあります(情報源ははっきりしないので、あくまで噂です)。
あまりにも残酷な自国の「行為」を海外の人から指摘された時、私自身が直接何かをしたわけではないけれど、いくばくかの罪悪感や認めたくない気持ちは生まれますね。ユダヤ人の虐殺を例にはできても、南京大虐殺は例えにしたくないような。テロ事件があるたびに、KAMIKAZE(神風)と表現されることにわだかまりを感じるように、同じような思いをドイツに押し付けていることはあるかもしれません。と、これは個人的な反省と気づきの共有です。
当時を生きた人たちが、今の平和な日本をつくってくれたのは確かなこと。これを次の世代につなげていくために、私たちは自分で考えること、考え合うことによって、人類を悪に向かわせないようにしていきたいですね(よくありがちな誰かの考えに収まった例)。


みじんこは、悪に向かいません!ヽ(=´▽`=)ノ

みじんくん と みじこちゃん

「たまには悪だよっ。」
「ときに悪だよー」

mijinconbi

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