「もの派」とは、「もの」をシンプルに組み合わせて作品とする、1960年代終わりから70年代にかけての美術動向のこと。その代表的な作家である菅木志雄さんの個展を見に行ってきました。
菅 木志雄展「志向する界景」
なんらかの作業ができるのは、ものの向こう側にも、空間のこちら側にも、なにかあるのではないかと思わせる 〈志向性〉があるからである。 あるだけでなく〈志向する〉ことによって、別種の存在するものや領域がかい間見えるということだろうか。いわば〈志向しなければ〉なにも見えないのである
2015年11月14日 [土] – 12月26日 [土] 日月祝休
会場:小山登美夫ギャラリー
※撮影可能。SNS等での紹介も可能とのこと。
✓ 関連リンク 菅 木志雄展「志向する界景」
制作前に「見る」見えざるものを「見る」
菅さんは、「もの」に潜在的に備わっている『見えざるもの』を『見る』という言い方を繰り返ししているといいます。見えていない部分、思考していることがすでに1つの「素材」であるとしています。「もの」だけでなく、「もの」と「もの」が置かれた空間が美しく、丁寧に見れば見るほど発見があります。それはまるで、作品から理解の糸が垂れているかのようで、誰でも気づく糸を引っ張ると、次々と新たな糸が引きずり出されてくるような楽しさがあります。
壁一面に並んだ作品はちょっとかわいげ、笑。
見ているようで見ていない現実
イギリスのメンタリスト、ダレン・ブラウン氏の実験で興味深い実験があります。
道が分からないと聞く人がいて、聞いている途中に聴いている人が入れ替わっても、答えている側は気づかないというものです。
見ることに関しては、こんな実験もあります。
白い服のチームがバスケットボールをパスしている回数を数えるというもの。あなたはパスの回数を正確に数えることができるか?おもしろいので、ぜひやってみてください^^
こうした実験を踏まえると、私たちがいかに日常、「もの」を見ているようで見ていないかに気づかされます。
「見る」ことで「知る」
こちらが私のお気に入りの作品。角度を変えて見ることでおもしろさが増し、より見たくなる。作品を「見る」ために自ら角度や高さを変えながら「見て」しまう。それだけ興味を引きつけるところに「志向」が生まれ、「見る」という行為の精度が増す気がしました。
シンプルな作品ですが、木にこれだけ穴を開けて、同じようなサイズの石を均等にはめ込んでいくってけっこう大変なはずなんですよね。そういうところも考えながら展示全体を見ると、作家の技術力の高さや、この表現に至るまでに行ってきた試行錯誤の数々、作家自身の血と汗が作品の圧力として迫りくるように思います。
「もの派」の中心的作家、李禹煥の展示がスカイザバスハウスで開催中。こちらもチェック☆
✓ 関連リンク 1968年に紛失した作品が再現~最先端のアートをスカイザバスハウスで SCAI THE BATHHOUSE
みじんこは、世界の見え方をおもしろくするアートを紹介します!ヽ(=´▽`=)ノ