まだまだつづく、山口周さんの武器になる哲学より、今日は反脆弱性を。現代アーティストとして、作品を考え抜いていく姿勢は、哲学から学ぶことが多いのだと実感しています。ぜひ、アーティストさんにもおススメしたい一冊。
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「弱い」の反対は「強い」なのか?
タイトルの「反脆弱性」とは、『外乱や圧力によって、かえってパフォーマンスが高まる性質』と著書では定義されています。壊れやすい、もろい、脆弱の対義語はなんでしょう?まぁ、「弱い」の反対語なんだから、「強い」じゃないの?とふつうは考えます。ここに疑問をもったのがレバノン出身、アメリカの作家、認識論者のナシーム・ニコラス・タレブです。日常に生きていてぜんぜん疑問に思ったことがないポイントを突いてきやがりましたね。小学生くらいの頃、対義語を書かせるテストがありましたが、その時に「弱い」の反対に「反脆弱」とか書けてたら超かっこよかったです。ぜひ、お子さんにオススメください。
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反脆弱性と頑健さの違い
じゃあ「強い」と「反脆弱性」は何が違うの、と。「強い」というのは、現状維持なんですね。最初から最後まで同じ強さ。しかし、「反脆弱」は叩かれれば叩かれるほど「強さを増す」。
人間の身体のような生きているもの、有機的なもの、複合的なものと、机の上のホッチキスのような無機的なものとの違いは、反脆さがあるかどうかなのだ。
具体的な「反脆弱」の事例として、著者は炎上マーケティングを挙げています。炎上されることによって、むしろ注目が集まり、商品が売れることがある。人間の身体も3日間の絶食という負荷をかけると、免疫力が上がるという報告がありますね。
ほかにスピードスケートの金メダリスト、清水宏保選手は、小さい頃から気管支喘息を患っており、それを克服しようとしたところから世界レベルの選手になっています。ほかにも病気や身体の弱さを克服して結果を残しているアスリートは多くいますね。まさに、弱さがきっかけで鍛え上げられていった性質です。
✓ 参考リンク ファスティングとは?5つの効果でカラダが変わる「理論と方法の総まとめ」
不確実な時代に対応する力
著者は、『組織論について言えば、意図的な失敗を盛り込むのが重要』としています。ストレスがかからないと脆弱になっていくのであれば、自分が耐え切れるくらいのストレスをかけつづけたほうがいい、と。理由として『失敗は学習を促し、組織の創造性を高めることになる』からとしています。
これは特に、不確実性が高まっている時代だからこその対応だといえます。人工知能(AI)が人間の脳を超えるのが2045年頃。これをシンギュラリティ(技術的特異点)と呼びます。これ以降は全く何が起こるか予測がつかないという話も。どうなるか分からない時代だからこそ、失敗を重ね、それを乗り越えていく「反脆弱性」を身につけていくことが重要なのです。
批評という適度なストレス
現代アートの世界における「適度なストレス」というのは、やっぱり批評なんですね。これはどうなの?と指摘されることで、「うあー、考えてなかったー!」と反省して考え直す。それによって考えが深まることはよくあります。以前、ニューヨークのアートスクールで行われた批評についてのレクチャーを聞きに行ったことがありました。その時、登壇していた批評家が「批評家はどこからも独立しているべき」と指摘していました。そんなの当たり前、な気がしますが、実のところメディアとの癒着などもあるようですね。現代アートは億単位のお金が動くような巨大ビジネス市場でもある。そこになんらかの利権が絡むのは想像がつきます。
しかし、現代アートの世界における批評の役割は重要で、たとえば草間彌生や「具体」の作家の再評価はアレキサンドラ・モンロー(現ソロモン・R・グッゲンハイム美術館アジア美術上級キュレーター/2017)という女性がアメリカで日本美術について紹介したことがきっかけになっています(「アートにとって価値とは何か」三潴末雄より)。
✓ 参考リンク アートにとって価値とは何か 2017年度「国際交流基金賞」にグッゲンハイム美術館のアレクサンドラ・モンローら決まる
なぜ?によって思考を鍛える
では、批評をもとに現代アーティストとしての「反脆弱性」を鍛えるにはどうしたらいいか。それはシンプルに「なぜ?」と問いかけることです。自己批評としての「なぜ?」。なぜ、この素材を選んでいるか、なぜこの形状なのか。
また、この「なぜ?」は他者からの批評についても有効です。批評(およびあらゆる意見)を受けた時は、まずその批評が自分に必要かどうかを見極めることが重要です。そうでないと、他者の意見に振り回されてあらぬ方向に寄り道しまくってしまうからです。「アート」が分かってるとなんかセンスありそう、みたいなイメージがありますね。しかも根拠があんまりなくて良さそうなので、アート通ぶりたい人たちがいろんな意見を言ってきます。「楽しんだほうがいいものができる」「感性に従ったほうがいいものができる」
私も始めた時の頃に「アート分かってる」方々の意見にだいぶ振り回されました。デッサンができないとダメ、もその一つでしょうか。もちろん、自分でできればいいでしょうが、必要ならネットで画像をダウンロードしてフォトショ加工したのを作品の下地に使ってもいいわけですよ。現代は、技術はいくらでも飛び級できる。むしろなんで手で全部できないとダメ? それよりも、技術をどう使っていくかのほうが大事ですから。私が言われたとおりにデッサンの練習から始めていたら、今頃きっとまだ日本でデッサンやりながら発表機会もなく貧困にあえいでますよ笑。
しかし、現代アートを「よく分からないけど始めてみたい」状態の時、いろんな意見に迷ってしまうのも非常によく分かります。私は最初の個展から、企画個展を含む海外活動ができるようになるまで3年かかっています。作品が売れるようになり、マザーギャラリーのUNAC TOKYOではなく、海外のギャラリーから声がかかるようになったのは、ようやく今年から。最初の個展からは5年かかっています。でも、迷ってる時間が短ければ、1年くらいには短縮できるでしょう。
初期の頃に迷ってしまう原因は、自信のなさと周りの意見に右往左往してしまうこと。特に展示発表をし始めたばかりの頃が一番ヤバイ笑。見る人が増えることで、いろんなことを言われるようになる。
しかし、この「なぜ?」の問いかけのおかげで、オロオロすることなく、あらゆる意見を血肉にすることができます。人に何かを言われた時、「なぜ?」と聞き返して、「なんとなく」「そんな感じがした」という意見が返ってくる場合は、いわゆる「※これは個人の感想です。」ってやつです。なのでそれによって自作を変える必要はないですね。重要なのは、「こういう理由でこう感じたので良くない」という理由のある批判。理由に反論できるところがあればする。できなければそれは自作の甘さです。「こういう理由でこう感じたので良かった」の場合は、理由がすでに自身で気づいていたことならそのまま、初めて聞く意見なら、自作のプレゼンに取り込めないか考える、です。
たとえば「そんな考えすぎないで、もっと楽しんでつくったほうがいいよ」という意見があったとします。その理由が「考えすぎた作品は自由度がなくてギスギスしちゃう、つまらないよ」だったとする。なるほど。しかし、ここで「なぜ?」です。考えすぎた作品はそもそもつまらないのか? 考え込まれた作品は、その作品を通じてさまざまなことに考えを及ばすことによって、いろいろな示唆を与えてくれます。それは、画面の奥底にある思考の自由さを感じさせるともいえる。あるいは、その人に「考えすぎて自由度がなくなり、つまらない作品の具体例」を聞くといいですね。この手の「考えすぎはダメ」みたいなよく聞く一般論は、だいたいはそれを言う人も他者の意見を流用しているだけなので、突っ込むことですぐに答えに詰まります。しかし、こうして問いかけることは、その人に新しい視点を示唆させることにもなります。「考え尽すのもいいかもしれない」と。突っ込むことは意地悪くもあるのだけど、こういったさまざまな視点の提供は、私は現代アートができる社会への貢献の一つだと考えています。つまり、思考する機会の提供。思考する力は訓練によって身につくものですから。
じゃあ「楽しんだほうがいい」は? これについても、そもそも楽しむってなんなの?ということに疑問がわきます。何が楽しいかは人によってさまざま。時に苦しいことも娯楽なのです。たとえばホラー映画とかジェットコースターとか。わざわざ怖い目にあって楽しみたいというね。こうして、一つ一つふだんは特に考えもしないことに焦点を当てて疑問をもつことで、現代アーティストとして必要な思考力が身につく。これが反脆弱性の獲得につながっていきます。
あともう一つ、嫌なことはちゃんと主張すること。無名のアーティストは他の人に「かわいそう」扱いされがちです(そんなことない?)。お金がなくてかわいそう、売れてなくてかわいそう、かわいそうだから買ってあげよう。我々は他者の虚栄心を満足させる存在ではありません。我々がやっていることは、日本の文化・芸術への貢献です。売れていることが多大な貢献なわけではなく、多様性の一助を担っていることがすでに貢献なのです。
多くの人が、僕にもお前にも無理だよ、と言った。
彼らは君に成功して欲しくないんだ。
何故なら、彼らは成功できなかったから。
途中で諦めてしまったから。
だから、君にもその夢を諦めて欲しいんだ。
不幸な人は不幸な人を友達にしたいんだ。(マイケル・ジョーダン)
みじんこは、打たれ弱いです!ヽ(=´▽`=)ノ