現代アーティストを名乗る人たちがアートとしてやっていることと、一般の人が「アート」と言われて思い描くものの乖離がけっこうあるのが日本。自分も現代アートとは程遠いところから現代アートを学び始めたクチなので、その気持ちがとてもよく分かる。小さい頃とか現代アートが展示されてる美術館に行って「なんかゴミ、、きたない、イミフ」って思ってました。
今日はマンガを使って現代アートというものを説明してみたいと思います!
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マンガという現代アート
日本人になじみの深いマンガ。あまりにも当たり前にあるので、普通に読んでますが、海外のコミックと比べると実は非常にクオリティが高いのですね。これについて、現代アーティストの村上隆さんも、その著作「芸術闘争論」の中でこのように言っています。
みなさんは「マンガはコンテクストなど理解せずに、自由に見て楽しめるからいい」と思っているかもしれませんが、実は外国人にとってマンガほどハイコンテクストで、ハードルの高い文法を持った芸術はありません。
マンガと現代アートを比較しながらちょっと解説してみましょう。
日本のアートの認識は「王道バトルマンガ」
ものすごく平たく言ってしまうと、日本の多くの人が「いいアート」って思ってるものはたぶん、「きれいな絵」なんですよね。簡単に言うと、王道バトルマンガのみをアート(マンガ)だと思ってる、って感じです。
王道バトルマンガを平たく言うと、「努力して強くなってさらに強い敵を倒す」みたいなやつです。一種の黄金パターンで、王道としての安心のおもしろさがある。わかってるからこそ大きく外すこともなく楽しめる。分かっていても我々は水戸黄門さまが印籠を出すところを見たいのです。20分のドタバタは印籠の瞬間のためにあると言ってもいい。努力して強くなるんだな、そして最強の敵に立ち向かうのだろうな、と予測がついてても読んでしまう。そういうやつ。
しかし、日本のマンガはこの王道だけでは終わらないわけです。
フィンランドの図書館にもあった『ワンパンマン』。通常は弱い主人公が頑張って修行して強くなるんですが、最初から主人公が最強なんですね。すべての敵をワンパンで倒してしまいます。宇宙からやってきた最強の魔王みたいなやつも表情を変えることなくワンパンでさよならです。いや、この主人公・サイタマもハゲるほど努力して強くなったんですが、努力した描写がほぼ皆無なので、いきなり最強だった感じしかしないのです。最初から最強なんだけどおもしろい。これまでのように強くなった主人公が周りに讃えられるっていう感じもなく、本人も趣味でヒーローやってると言っちゃうようなゆるさも最高で。ジャンル的にはバトルものだと思うのですが、王道パターンを崩した例です。
次に考える王道と言えば、「主人公が天才か特別な才能がある」です。
生まれながらに天才だったり、魔法の力を持っていたり。マンガならではですが、ほんとうらやましい。そういう人も実際にいますしかっこいいし憧れますが、そんなのほんと一握りで、ほとんどの人は辛い過去もなくそれなりに頑張ってもそこそこ程度、楽しみはたまにつまむスルメ、みたいな感じですよね。シャーロックホームズしかり、ハリーポッターしかり。天才あるいは超人ってだいたい人気者です。まさにヒーローにふさわしい。(いいなぁ、生まれながらに天才とか、楽そうでいいなぁ)
しかしこれもマンガでは崩しているものがあって。たとえば都道府県が戦う四十七大戦。主人公はビジュアルも地味かつ弱気な鳥取県です。首都を巡って戦うマンガなんですが、そもそも鳥取県には首都になる気がない。最初から負けでいい派です。いわゆるヒーローっぽくないタイプの子でも主人公を張れるのが日本のマンガです。
さらにラスボスが自分の殺し方を指導してくれるみたいな崩しまくってるマンガもあって。この黄色い先生はけっこういい人なので、なんかそうなってくると「敵」ってなんだみたいな。敵を殺す必要はあるのか、みたいな問いかけにも感じられて、あんまり考えずにあははと思って読んでたわけですが、じっくり考えてみると村上隆さんが言うようにハイコンテクストなわけです。ヌルフフフ。
さらにもう戦わないものもたくさんあって。『聖おにいさん』はブッダとイエスが立川で同居してるマンガなんですよね。冷静に考えると宗教的に対立しないのかな、とか。。w
これ、映画化もされて「ウケる」って思いながら読んでる人いっぱいいると思いますが、一部の国から見るとけっこう過激なんですよね。フランスなんかは宗教をいじったりすることに対して厳しいようで、フランス人に「そんなのあんの?」と驚かれたことがあります。各国の教会の多さ、教会に来る人たちの信仰の深さを考えると、シャレにならなさそうなのもなんとなく分かります。あいちトリエンナーレで天皇写真が問題になっていましたが、このマンガもけっこう物議かもすレベル、それも世界的に、です。日本にも仏教徒、キリスト教徒はいると思うのですが、大きな問題にはなっていない。日本だと「まぁ、マンガだし」みたいな感じで受け入れちゃう空気もあるような。このマンガが出せて、受け入れられちゃうっていうのは、それだけ懐が広いってことなんですね。
↓ ちな、このハト、創造主(神)です。
作品が何度も議論の的となっている会田誠さん。特に有名なものとしては少女の手足を切断した「犬」シリーズと呼ばれる作品(絵)があります。抗議の声が上がりまくって展示中止にもなることがあるんですが、日本にはこの犬シリーズを凌駕するようなサイコパスなマンガもいっぱいあります。
✓ 参考リンク エロや政治的表現で度々抗議を受けている会田誠。美術業界は自由? | 表現の不自由時代 03
※けっこう閲覧注意です。
ここで言いたいのは、教育上よくない、こういうのは全部禁止にしろ!ということではなく、「日本ではマンガという形態だといろんなことが受け入れられやすい」という点です。
さらに画面に注目すると、日本のマンガは「コマ割り」が非常によくできてる。海外の図書館で海外コミックをパラりとめくると、コマがけっこう均一だったりするんですよね。そこがとても読みにくい。画面に視覚的変化があまりないのです。これは言語の問題もあるかもしれません。アルファベットの文字列は見栄えが非常に単調。それに比べると、ひらがな、カタカナ、漢字を駆使している日本人は視覚的に文章を「見る」ことに慣れているあるいは長けていると考えられる。さらに日本のマンガでは擬音語が単に音を伝えるというより、画面全体の迫力を出すために使われていたり、コマにも時間経過を伝えるリズムがあったりします。
日本のマンガのコマって、まるで生き物のようですよ。
改めて日本のマンガはすごい
ここでようやく現代アートの話に戻りますが、日本で一般的に「アート」って思われてるものを「王道バトルマンガ」だとすると、現代アーティストが世界でやってることは、こうしたさまざまな王道崩しのバリエーション(=マンガというジャンル全般)なんですね。王道を軽く変化させたものもあれば、学べるものもあるし、笑えるものもある。だいたいこうだよね、という常識を覆し、常識ってなによ?って言って、既存のアートに疑問を投げかけてきたのが現代アートです。
先日、箕輪厚介さんのVOICY、ミノトークを聞いていたら、箕輪さんのやってることって現代アートがやろうとしてることだ!と感じました。キングコングの西野さんが芸人を「ロック」みたいな生き方のことだ、と定義しているんですが、西野さんが言ってること・やってることも現代アートっぽいんですね。みんなが右に行くならひとりだけ左に行くのが芸人だっていう例のやつです。
私自身は世界最高の現代アーティストはブッダなんじゃないか、と思ってる人なんですね。カテゴリ分けをあんまり考えていないからです。現代アート的なことをやっている人が「現代アーティスト」と名乗っていないだけ、逆もまた同じ、という考え方をしています。(共感を得られるかは分かりません)
どっかで書いてあるようなことを話してる時と、自分の中のなにかを切開して、そこからドバドバとドロリと何かが出るような感覚って違うから、ここが完全に塩田さんにとっての核であり、切ったら血が出るようなとこだなと。(中略)オリジナルなもの、世界に対して固有の価値があるものって絶対に今の世の中との接点があるんだよね。誰かのマネだったり二番煎じだったり、表面だけつくろったものは、演出を過剰にしないと無理だし、ある意味で嘘をつかないと新しく見えないんだけど、完全に固有のものっていうのは、そのパイが、マーケットが大きいか小さいかはおいといて、基本的に今の時代と接続する接点をもってるんだよね。(ミノトークより)
✓ 参考リンク ミノトーク(Voicy:編集とは何か テーマを見つける)
アートって王道バトルマンガみたいなやつだけじゃないんだ!と思ったら、その作品がいいか悪いかはともかく、とりあえず受け取ってみる。その作品がこれまでのどんな常識を覆した、あるいは覆そうとしているのか、というのを思い起こしながら作品に触れると、その人を通じた「生きた風景」が見えるんじゃないかなと。そこには、王道じゃなかったらどうなんだろう。違う方法はないの?という問題提起が含まれてたりする。日本はマンガのおかげでそういう土壌が実はけっこう浸透している。
そんなわけで、もしも現代アートイミフって思ってる人がいたら次は、現代アートも王道バトル以外のものがあるんだ!って感じの目で楽しんでみてください!(*´▽`*)
✓ 参考リンク アルのコマ投稿をWordPressに埋め込めるようになりました!
みじんこは、マンガからアートを学んでいるよ!ヽ(=´▽`=)ノ