落合陽一さんのアーティストとしての側面、展覧会はずっと見てみたいと思っていたのですが、この度、ついに実現。展覧会の感想と共に、最も気になった「釘」について、さらに解像度と自然について考えてみました。
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パースペクティブってなに?
さて、最初の疑問はパースペクティブ。調べたら「遠近感」のこと。遠近感って言ってくれたらググらなくて済んだのに、なぜパースペクティブ。・・・と言いたいところでしたが「質量への憧憬 ~前計算機自然の遠近感」だったら、漢字ばかりすぎて、しょっぱなからウンザリしますね。「質量への憧憬 ~前計算機自然のエンキンカン」だったら別のニュアンスがこもった感じで可愛いイメージ。笑。
✓ 参考リンク 落合陽一が見せる「写真家」としての一面。言葉/ビジュアル/メディア・アートの間の物質性を表現した新作とは?(美術手帖)
最も気になった「釘」の存在
写真作品「単体」で見た場合、それほど興味は惹かれなかった。しかし、この無数の写真を展示している手法が気になって気になって仕方なかったので、それについて紹介したい。
会場風景はこんな感じ。複数のインスタレーション作品のほか、写真が壁を埋めている。展覧会自体が一つの「遊園地」みたいに空間として創りこまれているので、物質化されていない会場の「空気感」をまず楽しむことができる。さて、釘。
この展覧会、壁に張っている写真の展示方法が場所によって違ったんです。入り口入ってすぐのところは、釘を使わずに張り付けられている。まぁ、壁の材質で釘が刺さらないという理由だろう。しかし、釘が刺さっているところの刺さり方が、壁によってだいぶ違う。
展示として一番キレイに見えたのは、この釘の刺さり方。写真の画像の四隅に均等な高さで釘が刺さっている。
ある程度の法則性が見られるのはこれ。上側は四隅、下側はそれより内側に。
しかし、これはなんだ!法則もなにもあったもんじゃない。刺してる場所も統一されていないし、釘の高さもバラバラ。一部の写真は刺しミスなのか、穴が開いてしまっている。
通常、一人のアーティストの展覧会の場合、展示方法は基本的にアーティストあるいは責任者の指示の下で統一される。なので、壁ごとにこんなに展示方法が変わってくるというのは、普通ありえないのだ。予想されるとしたら、設置した人が最初はてきとうに刺し始めたが、だんだん慣れてきて統一したほうがいいかなーと思い始め、最後に展示した部分が最も統一された刺さり方になった、ということ。統一した指示がなされなかったということ。あるいは「それぞれの判断で」という指示がなされたかということ。
先に言っておきたいのは、この釘の刺し方のまばらさは、この展覧会の質を下げる物では全くなく、むしろ上げるほうに貢献しているということ。というのも、落合陽一さんは、厳格に規格統一させるようなタイプのアーティストではなく、ノイズを残すタイプの作家だからだ(私も同じなので)。
展示空間のつくりを見てわかるように、ヒトの計算に依らないノイズが多く残されている。写真の散らばり方もそうだし(ある程度は机の全体に散るようにしているだろうけど完全に計算ずくではない)、コンクリート片の散り方もそう。さて、ではそろそろ作品本体について。
解像度とはなにか
メインとなるインスタレーション作品がたぶんこちら。時代ごと、さまざまなモニターに映し出されているのは同じ画像。ちなみに、外向きのディスプレイにも同じやつが写ってましたね。しかし、外向けに設置されている分、窓ガラスの反射が映って「元の画像がはっきり分からない」
一番大きなモニターに映っている画像が最も鮮明で、色も分かる。他のモニターに映し出された画像は、単一色だったり、ザラザラーっとしたノイズが入っていたり、正直、同じ画像とは思えないほど明らかに違う。ただ、この作品の画像をもっとも鮮明に映し出したのはやはり、撮影した作家本人の脳内記憶であるわけで、そこには視覚情報だけでなく、音や匂いなども含まれるはず。
最近、解像度という言葉をよく聞く。たとえば、「できる人は解像度が高い」とか「高い解像度で人生を見つめる」とか。解像度高くありたいけど、そもそもどうなってると解像度が高いのだろうか、と考えていた。その答えが、この展覧会のおかげで一つ得られた。「解像度」とは、熱中できる物があるかどうか、だと。
✓ 参考リンク 『守るべきものを守りながら戦う』もし家入一真が今、20代だったら
たとえば、「釘(展示方法)」についての私の解像度はたぶん割と高めだった。作品ではなく飾り扱いっぽい生け枯れ花の瓶に作品と同じリボンが巻きついているのにも気づいていたし、インスタレーション作品のワイヤーの位置が均等でないことにも気づいていた。
しかし、その分、作品だったはずの写真本体の記憶はほとんどない。多くの人たちが気づくものに対する解像度が高いほど、問題提起・解決した時のインパクトが大きい(社会的に成功しやすい)ということになるんじゃないだろうか(マジョリティに寄せる必要はないので誤解のないよう。レア度が高いならそれはそれで価値がある)。
簡単に言えば、解像度というのは「自分の感性に対するこだわり」、かな。私は展覧会場に入ってすぐに釘の違いに気づいたわけじゃない。一番奥の壁に行き着いて戻るタイミングで気づき、それで全部の壁を再度見直した。
生きていて、何も感情が動かないっていうことはほとんどないはず。「イヤだな、ひどいな、こうだったらいいのに、ああなりたい」そういう気持ちが動いた時に、どこまでそこに手をかけてやれるか。そうして手をかけているうちに、気づく範囲が広がっていく。私は今、アーティストをやっているし、自分でも展示をするので「展示方法を学ぶ」という視点を常に持っているから釘に気づいた。獣医だった自分だったら、きっと釘には気づかなかっただろうし、そもそもこの展覧会の存在すら気づかなかったかもしれない。
自然と人工の対立
さて、最後に一番好きだった作品。科学技術というのは、なぜこうも人の心をワクワクさせるんだろう。双眼実体顕微鏡を初めて見た時、カイコがすごく巨大に見えて「うおおっ」となったのを覚えています。科学技術を身近に感じると、可能性が無限すぎることを実感できる。
こちらの作品はタマムシとレーザー。レーザー光とタマムシの模様の光り方が似ている、と解説には書かれている。こういうレーザー光って日常ではなかなか見ないのだけど(一般人に馴染みのあるレーザーは、レーザーポインターの赤いやつではないだろうか)、この光が「自然なのか人工なのか」というのは、明確に定義されない。そもそも自然VS人工的に二項対立で見るのは西洋的な発想の特徴で、日本人は割と、「自然の中に我々がいる」という感じの自然観をもつ。私も日本的自然観の持ち主なんだけど、これを持っていると、二項対立的自然観の人と対立してしまう。両者を内包する自然観はないのか、と模索していたのですが、落合陽一さんの「デジタルネイチャー」というのは、その答えの一つであるような気がしました。レーザー光、単純に美しいです^^
みじんこは、科学的に解明されないよ!ヽ(=´▽`=)ノ