なぜ、ニューヨークを選んだのか。
言葉も文化も違う国へ、人はどうして移り住もうと思うのだろう。
私は海外に行くのは好きだけど、定期的に日本に戻りたいって感じる。日本はやっぱり私のHOMEなんだ。
今日のみじんこTALKは、1961年に渡米し日本人美術家協会を立ちあげ、初代会長に就任した飯塚国雄氏との30分トーク!観光パスポートの自由化前にニューヨークに移り住んだ気持ちを後押しした衝動とは何か!?
ニューヨークに渡ったのは、それが『青春』だったから
小学校の頃から絵描きになりたかったという飯塚さんは、最初はパリに行きたかったのだという。高校生になった頃、美術の中心がニューヨークに移り、1961年、飯塚さんが22歳の時にニューヨークにやってきた。観光目的でパスポート取得が自由にできるようになったのは1964年。1960年より前にニューヨークに渡ったアーティストは、商社とコネがあって顧客がいるという理由でギャラリーでもすぐに紹介されるような人ばかり。有名ですでにお金があるような人だけが渡米してもやっていけた。お金がない人は渡航するのも困難。そんな時代に、あえてニューヨークにやってきたのは、それが『青春』だったから、飯塚氏はそう語る。
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美術家協会の設立を支えた一人のユダヤ人
飯塚さんが日本人美術家協会を作ったのは1973年。当時、まだ多くの差別が残るアメリカ社会の中で、自分たちを守っていくためには団結できる「コミュニティ」が必要だったのだという。共同でモノを買ったり、共同で弁護士を雇ったり。健康保険ひとつ取得するのにも非常に困難が伴う中、団体のチカラで自分たちを守ろうとした。ただ、協会設立には多額の費用がかかる。そんな飯塚さんたちを支えたのが、マックス・ブレッチャーというユダヤ人弁護士だった。
ブレッチャー氏が協会の設立費や手続きなどの面で協力してくれたおかげで、飯塚さんたちは協会を立ち上げることができ、現在はNY在住アーティストの支援や文化交流をテーマに活動を続けている。
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彼の名を「賞」として残すことで、感謝の気持ちを残したい
日本人美術家協会はすでに40年以上活動を続けている。そんな中、飯塚さんたちは設立時に助けてくれたマックスさんの名を冠した賞を制定したという。
「お金のある会じゃないから、賞といってもそんなに大きなお金は出せないんだけど。せめて名前を残すことで、彼の貢献に報いたいって思ったんだよね」
当時は、ユダヤ人も同じように差別を受けていた。だからこそ、外国で暮らす飯塚さんたちの苦労に共感し、手を差し伸べてくれたのだろう、飯塚さんはそう語る。命のパスポートで有名な杉原千畝さんの貢献が、現在のユダヤ人社会への貢献となり、飯塚さんたちに日本人への恩返しとして返ってきたのかもしれない。
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一生の間にアートで稼げたのは500万円程度
飯塚さんは、ニューヨークの国連本部での展示経験もあり、長崎国際文化会館(原爆資料館)に所蔵されてもいるが、今までに絵だけで稼げたお金は500万くらいだ、という。
寄贈した絵に関してはむしろ送料がかかってしまい、赤字になっているらしい。「絵で食べていくなんて大変だよ」そう言う飯塚さんは、今も描くことをやめていない。
1960年代にNYに来て、一緒に苦労した人たちを少しでも紹介したい、飯塚さんたちの活動は続く。
私の画については、「おもしろいスタイルなんじゃない?50年くらい続けたらモノになるよ」っておっしゃってました。うーん、もうちょっと早くモノになりたい、笑。村上隆氏も芸術家の必要なのは執念だ、と言ってましたが、ニューヨーク在住の日本人の方も何人かがおっしゃってのは、「みんな結局、途中でやめちゃう」ということ。「続ける」というのは、自分の夢を実現させるための行為であると共に、支援してくださる方への日々の感謝の表現でもあるのかもしれません。
海外に長く住むって、たぶん想像以上に大変。私はオーストラリアに9ヶ月滞在してたことがありますが、「9ヶ月で帰る」と最初から思っていたから頑張れたのであって、ずっと住むつもりだったらもっときつかったかもしれません。ニューヨーク在住の方は魅力的な方ばかり!「みじんこTALK@NY編」引き続き、お楽しみにっ!
みじんこは、みんなのFun!をにょきにょき育ててくれる人たちと出会いまくります!ヽ(=´▽`=)ノ