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感覚的なことをあえて言語化する意味について考える~自己対話と共有と

  • 2月 14 / 2019
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みじんこアート, みじん講義

感覚的なことをあえて言語化する意味について考える~自己対話と共有と

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良著を濃縮還元してお届けするみじんこブックレビュー。今回は赤瀬川原平さんと山下裕二さんの対談でお届けする「日本美術応援団」から、「言語化すること」について考えてみました。

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ニラが植えられた屋根

本書で一番興味深かったエピソードは、屋根にニラを植えた話。屋根にニラが植わっているのだから、みんな気になって仕方ない。あれはなんなんだと聞いてくる。そこで「これはソーラー発電の一種で、ニラ発電なんです」と答えたんだそうです。そしたら、疑問を持った人は理解はしないがそれで納得する。人は、なんのためにどうなっている、っていう言葉のつじつまが合わないと不安になるのだ、と本書では伝えていました。

言語化することで他者と共有できる

薬のCMってよく「タウリン1000mg配合」とか具体的な有効成分の名前が出ますよね。あれを聞いてすぐにタウリンが何に有効かを分かる人は少ないと思うんですが、ああいうのが入っていると売り上げが上がる、みたいな話を聞いたことがあります。エセ科学でもそれっぽく言われると信じてしまう。ニラで発電なんてしてるわけがないけど、「ニラの中に含まれる葉緑素が酸素を生み出す時のエネルギーを屋根に蓄積し、微量ですが、1ヵ月で1日分の電力を賄えるんですよね」と言われるとちょっと信じそう。言葉って怖いですよね。でも、こういうのは、ちゃんと考えれば回避できるハナシ。脳はもともと、よく分からないものを好まない傾向にあるので、分からないアート作品を好まない・拒絶してしまう人がいるのも、脳の傾向のせいかもしれません。
とはいえ、アート作品は危険なものではないので、近づいてみるのも一興。その近づくためのツールとして言語化が役立ちます。好き・キライなどの感覚で見たとしても、感覚は必ず言語化できる。しかし、言語化すると情報量は圧倒的に小さくなります。侘び寂びにも通じることですが、言語化せずにただありのままを感じるというのは、情報を取捨選択せずにすべて受け取るということ。味わう、という意味ではそのほうが豊かかもしれない。じゃあ、言語化のメリットは何かというと「他者との共有」と「自分との対話」の2点かなと。自分が見ている「赤」が他の人にとって「緑」かもしれないように(クオリアと呼ばれる)、自分が感じている世界が他者と同じかどうかは全く分かりません。つまり、感覚って共有できないんですよね。「きっと同じだろう」と予想するくらいしかできない。同じであることは今のところ証明できないのだから。そして私は、たぶん、脳を入れ替えたら、他の人の感じている世界はまったく違うものだろうと思っているのです。じゃあ、脳を入れ替えずに感覚共有できる手段がないか、と考えた時、「言語」が不完全ながらも有効なんですよね。誰かが美味しいと言ったものが、他の人にも美味しいかもしれない。言語化することで他者にも興味をもってもらえるようになる。たとえば良いと思ったアート作品について、誰かに伝える。相手にとって気にいる作品でなかったとしても、少なくともあなたがその作品を素晴らしいと思っていることは伝わる。

なぜ言語化しないのか

それでも言葉にしない理由はなにか。特に日本だと感じるのですが、「空気を読む」「察する」という言葉があるように、言葉で言い表せない何かを含めて共有するというのが日本の文化なのかもしれません。しかし、同時に、言語化することに対して「分かってないことが知られたくない」「自分の考えに自信がない」「適切な言葉が思いつかない」みたいな感情はないでしょうか。だから、あえて「言語化しない」その裏にあるのは、できない自分を恥ずかしく思ったり、 失敗したくないという逃げだったり。
感覚って良悪がないんですよね。「まずい」ごはんはネガティブなイメージだけど、「すっぱい」「しょっぱい」「甘い」みたいな感覚にしてしまえば、この世に良悪はなくなる。そのほうが確かに心地よいかもしれない。でも、もし言語にできたら、今ここで感じたことを、それを実際に体験していない人にもおすそ分けできる。
言葉の使い方がうまくないから言葉にしない、自信がないから言葉にしない、のであれば、本当は社会の側に「伝えようとしたことは素晴らしいという姿勢」や「一緒に考えていこうという姿勢」が増えたほうがいい。あるいは「察することができない」人が肩身の狭い思いをしてるのであれば、それはきっと、言語が救ってくれる。そして、なんかうまくいかなかったとしても、言語は謝罪や感謝の言葉をもつ。(謝罪や感謝を感覚的に伝えるというのはちょっとテレパシー的だ)

海外で作品についての説明をしている時、私が「英語で説明するのが難しい」と言ってしまう時。それは単に自分の考え不足を「英語のせい」にしているだけで、本当のことをちゃんと言語化するのであれば、「そこまで深く考えていなかったけど、それを言ってしまうと作品の質が低いと思われてしまう気がする。それを避けたいから、ここは英語力の問題にしていったん保留して乗り切って、あとでまた考えよう」になる。
分からないと認めること、考えが足りなかったと気づき、それを認めること。自分ができないことを認めることは、できるように見せることより難しい。そういう自分を「言語化」という行為は教えてくれる。言葉というのは自分との対話でもある。

言葉にしない、あるいはものすごく抽象的な言葉を使えば、それっぽく見せ続けることだってできる。諸行無常なんて四文字なのに、なんとなく天才っぽい。ちゃんと言葉にできればやはり、言語化したことは他者との共有財産になる。「自分の知」ではなく、「みんなの知」を上げるという意味で、言葉にするというのは必要なこと。自信がなくても、よく分からなくても言葉にすることは、みんなでみんなのことを考えるということじゃないかな。


みじんこは、言葉にできないよ!ヽ(=´▽`=)ノ

みじんくん と みじこちゃん

「分からないからだよっ!」
「分からせないよー」

mijinconbi

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