正規の美術教育を受けていないというのがアウトサイダーアートのもともとの定義。でも、ぶっちゃけ、障がい者アートのことを指すことがほとんどですよね。デュビュッフェがアールブリュット(生の芸術)と提唱したこちらの概念。その純粋性を保つ方法として、改めて定義しなおしてみました。
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アウトサイダーアートの立ち位置
アウトサイダーアートと称されるものって、なんとなくこういう位置にある気がしませんか?
アートの歴史という大きな流れがあり、それとは別の場所にある。守られているとも言えるし、隔離されているとも言える。私は保護されているのはいいと思うのです。ただ気になるのは、もともとの純粋性ってどこまで確保されているのかなと。
寄り添う関係が純粋性を保つ
もしも作家自身が「自分は作家である」という自覚があって作品づくりをしているなら、その背景がなんであれ、堂々と歴史の中に推してやればいいんじゃないかと思うのです。気になるのは、それなのに「アウトサイダーアート」の枠の中に入ってしまうことで、もとの純粋性が確保されなくなってしまうんじゃないかということ。なので、アウトサイダーアートの「アーティスト」を2人組で定義したいのです。
デュビュッフェは自分が見つけてきた作家だけを「アールブリュット」として定義した。彼らは自分がアーティストだという認識があったのか?デュビュッフェが見出したことで、そういう認識をした人もいたかもしれない。けれど本来的には作品としてつくられたわけでもなく、自分はアーティストなんだという意識もなく、ただ純粋な制作だったのでは。見る人はその圧倒的な純粋性に心打たれるわけで。そこまで完全な純粋性って、「作品」を意識する人にはほとんど不可能なんですよね。
彼らは自分がつくったものにこだわりもないので、つくり終わったらぽいぽい捨てても構わない心持でいる。アートの歴史とかも考えない、アーティストだという自負もない。そこまでの純粋性を確保するには、見出し、作品を保護する存在が必要。そしたら、その見出す人は、つくる人と合わせてニコイチのアーティストとして定義してよいんじゃないかなと。
寄り添う存在がいて作品の純粋性が保たれる。「生の芸術」は寄り添いの芸術である。そういう在り方は、アウトサイダーアートの背景を合わせて考えてみればやさしいし、意義があるのかなと思います。
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みじんこは、純粋だよ!ヽ(=´▽`=)ノ