良著を濃縮還元してお届けするみじんこブックレビュー。安楽死問題と絡んで語られることがある「優生思想」。今日は『いのちの平等論―現代の優生思想に抗して』。読んでみたのですが、めっちゃ難しかった。。
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脳死についての記載が興味深かったので、思い出としてメモしておきます。
脳死を規定し、この病態の人を脳死体などと規定するのは、今のところ、できるだけ新鮮な臓器が欲しくて、心拍停止以前の病態の患者から臓器を取り出す臓器移植を、殺人罪などの恐れなしに円滑に行うためでしかない。 医療技術が発達してきたおかげで、「死」っていうのが細分化してきましたよね。 人間が「死」を定義する理由は、臓器移植問題だけでなく、いつになったら火葬するとかしていいのか、便宜上の問題も多いですよね。
「髪の毛の細胞がまだ3つ生きてるんで、生きてます」って言われると、身体が腐ってきてても一緒に過ごさないといけないかもしれない。でも、心臓が止まってお亡くなりですと言われたら、その後のお葬式の手配などが進められるし、心の整理をつけ始められます。 死んでも構成していた原子は残っているので、無に還るわけではなく、カタチを変える感じですが、「ここまでで死」と定義されると、生きている人たちが現実に対処しやすいのかなという気がします。 脳死をヒトの死とするかどうかっていうのは、脳=本人と定義することとも等しい気がします。 両手がなくなっても死ではないけど、脳がなくなると、本人の人間性が失われると考えられそうです。しかし、もっと技術が発達して、自分の体細胞から自分のクローンや脳の細胞がつくれたとしたら、完全なる脳死っていうのはなくなってしまうかもしれません。
改めて「死」について考えてみるなら、相手と対話ができなくなると「死」のような気がしてるんですよね。亡くなった人の映像とか見ると、まるで生きてるみたいに鮮明に感じますが、相手と自分が対話できるわけではありません。しかし、もしもテクノロジーが発達して、AIが自分っぽい単語を返せるようになったら、本人は「不在」でありながら、周りは「実在」を感じることはできるような気がします。 「死」を対話(コミュニケーション)で測るものとして考えると、「死」は本人ではなく、その周囲の人の中にある概念だと考えることもできます。 自分が生きている間は「生」と他者の「死」しかないのかもしれません。
この話に特に結論はないです。 臓器移植問題については、こちらのマンガがかなり切り込んでいるので、ぜひ参考にどうぞ。
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みじんこは死なないよっ!ヽ(=´▽`=)ノ