「差別」というのを「社会の病」ととらえて勉強中です。 差別ってなんだろう、なぜ生まれるのか、どうしたらなくなるのか、なんかを考えていたらこんな本がありました。
お父さんが娘さんに人種とは何かについて話すように書かれた本です。興味深かったところだけ抜粋します。
「人種ではなく人類」という言葉を使うよう提案したい。
人種っていう言葉によってヒトが分類されたこと、劣等民族みたいな概念が生まれたことを懸念しての言葉だと思います。 人種って人を種類別に分けてる言葉なので、そもそも分けなければ種別格差、種類による優劣が生まれなくなりそうですよね。「人類」って言われるとたしかに、みんな仲間感が強いです。
歴史を見てみると、多くの場合、少数民族が迫害されてきた。
この表記がとても興味深いなと感じました。というのも、レアメタルとかダイヤモンドとか、希少なものって価値が高くなるじゃないですか。少ないから貴重、高価ってなるのに、これが人間になると少ないほうが保護されなくなり、大多数の方が強くなるんですよね。
人種っていう種別で考えていると、自分の種を保護するために他を排除したほうが食物を分け合ったり住まいを分け合ったりできて、種が守られやすい(群れ的な考え)というのがあったのかもしれません。家族・部族を活かすために倒しやすい少数民族を排除してきたと考えるなら、それは分かります。ただ、みんながパソコン・スマホを持てるようになった時代に、まだ狩猟時代っぽい考えが必要なのか、というのはありますよね。
タイのアカ族、エストニアのセト族、ブラジルのグアラニー族なんかに会ったことがあるのですが、少数民族がもっている文化や言語、価値観、考え方などは、人類全体の宝だなぁと私は思っています。文化って簡単に育たないことですし、おもしろいですよね。
人間がこんなにいろんな様式を発展させてきたってすごく素敵なことだなぁって思います。「人類」っていう言葉が日常まで浸透してきたら、少数民族が守ってきた物は「人類の価値」として認識されてくるような気もしています。 「日本の伝統文化が失われそう」って言われると、伝統文化にそこまで興味がなくても、日本人だとなんか守りたい気がしますもんね。「日本」の部分が「人類」になった場合、人類の一員としては保護したほうがいいような気がしてきませんか。 つまり、宝石のようにレア民族のほうが価値があるって考えられる時代になってきてるんじゃないかなーと思っています。
歴史家エルネスト・ルナン(1823-1892)は、「劣等人種」に属する人間のグループを名指しすることさえしている。
エルネスト・ルナンはフランスの宗教史家なのですが、少数民族や黒人の人の書いた著作で他者を劣等としている説をあげているものはあるのだろうかと気になりました。 人より優れている側にまわりたいーっていう防衛?本能みたいなのってありますよね。ポンコツって思われたくないっていう。日本にも「穢多(えた)・非人」みたいな人たちがいた時代がありました。 優劣っていう思想は人を扇動しやすいので、王様とか権力者なら使いたい技な気もしています。「〇〇する人が優秀なんだよ」って植え付けたら、〇〇する人が増える、みたいな感じです。
「歓待」という姿勢をもつ
自分の国や地域にきた人たちを歓迎する文化をもつ国がモロッコ。行きずりの外国人を招き、歓迎する伝統があるそうです。韓国に短期滞在していた時に、韓国も自国に来た人たちを家族のように歓迎する傾向があると聞いたことがありました。 人種でも障がいでも性別差でも年齢差でもなんでも、自分と違うものを歓迎したほうが暮らしやすい社会だったら、歓待の文化が根付くのかもですね。 歓迎される場所には移動しやすいです。現在、「移動」を治療の一環だと考えている私としては、歓待と移動はセットの出来事だなぁと気づかされたのでした。 今日はそんな学びのメモでした。
今日も読んでいただきありがとうございました!
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みじんこは、マイノリティだよっ!ヽ(=´▽`=)ノ