Facebook上で長いこと存じ上げていたのですが、先日、初めてお会いする機会が得られまして、ありがたいことに作品についての詳しい話を伺えました。書道というものの基礎知識にはずいぶん疎い私ですが、同時代を生きる者として、ハシグチ作品が訴えかけてくるものについて、真剣に考えてみました。長くなったので、数回に分けますね。
※作品画像は本人提供です。
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感情の言語化、視覚化
ハシグチ作品の表していることは、もちろん作品シリーズによっていろいろとあるのですが、1つ言えるのは、身体的リアリティを通じた感情の言語化ではないかと。ご本人と話していてキーワードとして上がるのは「リアリティ」「ひっくり返す」「ノイズ」なんですね。タオルを使い、パンク音楽を聞きながら全身で書いていることを考えても、身体的なリアリティが作品に乗る。本人が他者作品を見る時にも「リアリティ」というのを非常に重要視しているのを感じているので、身体性、リアリティというのはハシグチさんの作品制作において非常に重要な要素だと予想されます。
そもそも書道というのは、身体を使って書くものなのだとある書家さんに教わったことがあります(山本さんではないですよ、私の人間関係を知る人に念のため、笑)。私は絵を描くけど、手先で描いている。でも、書道は全身で書くから、身体の動きが作品に乗るんですよね。
言葉は嘘をつける、身体は嘘をつけない
デジタル化が進んだ現代において、言葉のリアリティってずいぶん失われたと思いませんか?手書きの手紙だと、文字にその人の感情も宿りますよね。たとえばこれ
同じ「ありがとう」であっても、伝わり方が違いますよね。また、現代はスタンプがありますから。本気でありがとうとは思ってないけど、とりあえず社交辞令の「Thank you」スタンプしたことってありませんか?笑。
デジタルだからリアリティがなくなったとは私は思いません。デジタルでも言葉のリアリティはある。でもそれは、お互いの関係性(相手がどんな人かという想像力をもって受け取れる関係性)があってこそだったり、読み解く力が自分に必要だったりする。言葉の意味するところも、その文脈によって真逆になることもあるわけですから。デジタルによって、リアリティの表し方や受け取り方が変わった、というのがほんとではないかと。
言葉だけのメールに騙されてしまう人がいるように、言葉は割と嘘をつきやすい。しかし、身体で嘘をつくっていうのは難しいのです。心理学で相手の唇や身体の動きで嘘を見抜く術なんかがよく紹介されていますが、言葉で嘘をつけても、身体の反応で嘘をつくっていうのは、よほど訓練しないとかなり難しい。つまり、身体っていうのは、本人のリアリティをそのまま表しているのです。
技術修得した書家の書はリアルなのか
さて、ここで庶民として疑問を抱くのは、筆の技術を修得して自在に筆を扱えるようになった書家の言語(作品)はリアリティの表れなのか?ということ。書道は身体を使って作品をつくるのだとしても、技術研鑽によって身体からくるリアリティは失われてしまわないのでしょうか。分かりやすく言うと、キレイな字を書きたいなとペン字を練習して、上手に字が書けるようになったとする。しかし、その「キレイな字体」というのは、そもそも「これがキレイだよね」と決められた型に沿ったものであるわけで、本人そのものなわけではない。自在に筆を扱えるようになった書家の字体、あるいは文字の選択に、どこまでリアリティがあるのか。もちろん、単にリアリティがあるだけでアート作品として成り立ってしまうのであれば、文字を書き始めたばかりの子どもの文字が全部アート作品になってしまうので、リアリティがあるわけでは「作品」にはなりえませんが。
膨大な思考によって自身の真実を掘り下げる
「エゴが飼いならされた現代において、突き刺さるような圧倒的な自我。説明のいらない久々の存在。」
スープストックの遠山正道さんがハシグチさんについて、こう評しているのですが、これについて誤解が生まれそうなので、ちょっと「説明」しようかなと。今回、この記事に貼ったハシグチ作品「だけ」を見ると、なんかパンク音楽的感性で書いてるんだね、と思う人もいるかもしれないのだけど、ハシグチさんの作品制作のし方は膨大な思考の上に成り立っているんですね。「説明なんていらないんすよ、感性をそのままぶつければいいんすよ」と言っている作家の画面はだいたい似たり寄ったりのゴミ、もっと言えば他者作品のコピペ繋ぎ合わせで、思考するのが面倒なのをごまかしたい逃げ発言にすぎないというのが私の持論です。が、ハシグチ作品は思いつきで制作されたものではないんですね。彼は制作にあたり、膨大な量の思考ノートを残しており、それを定期的にSNS上で公開しています。他人には簡単には理解できないのだけど、それが作品制作にあたり、重要なものであることは分かる。それらの行為により、自身の真実(リアリティ)を掘り下げようとしている。そういった日々の積み上げが作品という形で漏出しているというわけ。
いい作品は、説明しなくてもいいし、説明してもいい。あらゆる方向からの強度に耐える。私はそう思っています^^
✓ 参考リンク ハシグチリンタロウさんのFacebook
ヒトには自由意志なんてないんじゃないか、という生理学者の研究がありますが、私たちは環境による影響を受けます。その際に、最も抑圧されてしまっているのが「感情」ではないかと思うのです。人前でガン切れしたり、大泣きしたりってなかなかできなくないですか?特に日本では。私は上海のアーティスト・イン・レジデンスに参加中に、アーティストさんが帰国するたびに大泣きしていて、カナダ人アーティストさんから「人前でこんなに泣く日本人を初めて見たわ」と言われたことがあります笑。カナダ人からすると、日本人は「何を考えているか」分からないのだそうです。感情を出さないから。本当に思っていることなのか、遠慮しているだけなのかが分からないと。
ちょっと特殊な経験ですが、私は身体から感情が失われてしまったことがあるんですね。獣医学生時代、多くの動物を手にかけているうちに、「殺す」ことに対して無感動になってしまった。涙が流れていてもちっとも悲しくない、という心が不在の状態になった。知能が正常なのに、感情がキャッチできなくなってしまった人の話を聞いたことがあるでしょうか?知性が残っていても、感情がなくなると、みんなが当たり前にできている判断が驚くほどできなくなるのです。臨床現場を離れて、身体に感情が戻ってきましたが、感情が身体の中にないと、「自分」にとっての「正しさ」の判断ができなくなってしまうんですね。抑圧し続けているうちに、足がマヒするように、自身の感情自体に鈍感になっていく。感情というのは、自分自身のリアルな言語で、身体表現として外部に表れます。ハシグチ作品の一部(すべてではなく)は、その感情を身体を通して生のまま画面に留めようとしているのではないかと。感情を一片の抑圧もなく、ピュアのまま画面に残すというのは、かなり難しいこと。なぜなら、私たちは無意識のうちに感情を抑圧してしまっているから。その抑制を外す装置としてタオルという書き方があり、音楽という環境があるのでは。
リアルを出してよいのかっていう躊躇はこの国に根深い
ハシグチさんがこう称するように、日本の同調圧力は確かにハンパないです。それはね、作品の鑑賞のし方を観察しても分かるのです。海外で展覧会をやると、床に寝転がっちゃう人とか、作品の前で踊り出す人とかいるんですよ。インストール中から窓越しに手を振り回して「いえーい!」って奇声を上げてくる人たちもいるし。まぁ酔ってるのかもしれないし、全員がそうなわけじゃないけど笑。でも、人がオリジナルであるなら、本来は作品を見る人の態度だってさまざまであるはずです。寝転がれるようなソファが用意してあるんでない限り、日本のギャラリーや美術館で寝転がる人、なかなか見かけないです。そういう「差」を見ると、日本のアートは、本当に日本人を自由にしてくれているんだろうか、という疑問が浮かぶのです。きれいにつくられた作品は、誰にでも「すごいね」って言ってもらいやすい。その分、それを選ぶ行為に「他の人から認められたい」ような承認欲求がないかな、と考えてしまう。誰もがいいっていうものを選べないと、変人に思われてしまいそう、仲間外れにされたくない恐怖。何しろ、私自身も最初は「なるべくキレイに描けないと誰も買ってくれない」って思っていましたし。そういう連鎖により、社会は制約の中にきちんと収まっていく。その制約を破ってくれるものとしての期待を我々はハシグチ作品に求めたくなる。私たちはもっと、感情というリアルな言語で対話してもよいのではないか、ハシグチ作品を見ているとそんな気がしてくるのです。
今回は、感情を言語と捉えた場合の方向からハシグチ作品にアプローチしてみましたが、次回はまた別の側面から考えていきたいと思います、お楽しみに!^^
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みじんこは、最高だよ!ヽ(=´▽`=)ノ