今は現代アーティストぶっている私も、もともとは現代アートっていうものが割とキライでした。だって、意味わかんないし、きれいな感じもしないし。昔はアーティストってのは「意味わかんないことをすることでかっこつけてるんだろう」と思ってたんですね。でも今は、その面白さが前より分かるようになりました。現代アートは「発見」する楽しさがある。今日はそれをイチイチ説明していこうと思います。
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こんな作品をつくってみました。
【昔のドローイングだから、安くていっか/Old Drawing so sell cheaply】
25.8×36.5cm(10.2×14.8inch)Pen on paper, 2014/2019
これは本当に単なるドローイングだったんですが、タイトルをつけたことで現代アートになりました。アートと現代アートの明確な境界というのはなくて、唯一確実なのが、「作家の認識」だと思っています。つまり、つくった人が「これは現代アートです」って言うかどうか。んで、Ouma的にこれは現代アートです。
【単なるドローイングだから、安くていっか/Just Drawing so sell cheaply】
25.8×36.5cm(10.2×14.8inch)Pen on panel, 2014/2019(両面描き)
なんでこれが現代アートであるか。まず、この作品が訴えかけていることを見ていきましょう。多くのアート作品はそこそこちゃんとした(笑)名前がついてますよね。この作品だって、「細胞の恍惚」とかいうタイトルだったら、そんな気がしなくもない。なんでこんなタイトルにしちゃったのか。どう考えてもやる気を感じません。そこにはこんな問いかけがありました。
1)大仰なタイトルで作品本体を「盛って」いないか
2)アート作品の価格はサイズや素材、作家のネームバリューで決まるのか
ラベルが与える影響
もしもこの作品が世界最高峰のアートフェアの1つ、ベニス・ビエンナーレに出展した作家の若い頃の作品なんだって言われたら、それだけでなんか凄そうな気がしません?そうじゃなくても、藝大の特待生が描いた物なんだ、とか、この作家は小品1点が1000万円で即売するほど人気の作家で、ハリウッドスターもコレクションしてるくらいなんだ、とか。
なんかそういう「説明書き」があるかどうかで、作品本体の「見え方」って全然違いますよね。これ、影響を受けるなっていうのは、かなり難しくて、純粋に「作品」だけを見るというのはほぼ不可能です。それは悪い面だけでなく、作品を作家のストーリーも含めて見てもらえているってことだから、人を感動させるストーリーをもつ作家は、作品自体も見映え以上に輝いて見えます。
ただ、この「ラベル」自体をもっと客観視してもいいんじゃない?っていうのがこの作品の問題提起なんです。あまりにも自動的に受容している外部からの権威づけからいったん自由になってみたら、もっと「対象物それ自体」と純粋に向き合えるんじゃないのっていう。
これに類することをジェフ・クーンズなんかがやってます。ジェフ・クーンズには掃除機の作品があるんですが、次々に新しいものを求められるアート業界を「次々に出てくる新型掃除機」に見立て、掃除機をきれいにパッケージして飾った。中身は掃除機だけど、こうしてアート作品にすることで、その滑稽さを具現化しているんですね(もっと他の意味あいもあるので、気になる人は詳しく調べてみてください。ものすごく綺麗にパッケージングされてるとこにも注目)。
田中功起さんの「そうして群馬県立近代美術館にたくさんのたらいが落ちる」なんかもいい例ですね。美術館にたくさんのたらいが落ちている。タイトルもいい、笑える。
美術館っていう高尚な場では、美しくきちんと絵が飾られていないといけない気がしません?それなのに、美術館にたらいが散らかってたらおもしろいですよね。それと同時に、「美術館ってちゃんとしてなきゃいけなかったんだっけ」「そもそも美術館って大衆とアートを結びつける場であるわけで、アートの楽しさをおもしろおかしく伝える手法があってもいいんじゃないの?」っていう可能性に気づかされる。
つまり、これまでの定型句に疑問をもって、「あれ、他のやり方もできるかもな!」という発見できる。そういう発見ができた時に、私は現代アートって素敵だなって思うんです。
昔の自分は、「なんで掃除機なんだよ、意味不」「たらいとか誰でもできるし」とか思っていた。常人にできないような超絶技巧だったり、分かりやすくキレイなものを描いているのがすごいんだと思っていたんですね。でも、現代アートについて深く知っていくことで、「視点を変えてくれる」以外にも「誰でも作り手として参加できる」っていうところに希望をもらったんですよ。だって、たらいとか誰でも散らせるでしょう。20世紀に最も影響を与えたとされるデュシャンの「泉(トイレを置いただけ)」だって、誰でもやれる。キレイなものをつくる技術や才能、身体がなくても、アイデアで社会を揺さぶる作品をつくることができる。そういう世界に開かれている感じ、そして世界の見かたを変える問いかけをしてくれること、私は現代アートのそういうところが好きなんです。だから自分もそういう作品をつくりたい。
✓ 参考リンク 常設展示 特集:田中功起 「たとえばここ最近の作品をすこし違ったかたちでみせること」(群馬県立近代美術館)
アート作品の価格は何で決まるのか
まだ売りに出してませんが、こちらの作品はかなり低価格で販売予定でいます。現代アートっていうのは作家が有名になれば過去のドローイングとかもどんどん値が上がっていくんですよね。私が将来どうなるかは分からないけど、もしも価格が上がってこの作品が100万円になったとする。でも、タイトルはこのままなんですよ。「単なるドローイングだから、安くていっか」って作家の声が出ている作品なのに100万円。滑稽ですよね。そういう滑稽さから、アート界のくだらなさ、みたいなのを顕在化させられる。価格については、最近、タグボートコラムのアート作品の価格について、を読んで気づかされたことがありました。通常、アート作品の価格ってサイズによって決まっていて、同じ作家の同サイズの作品は全部同じ価格っていうのがあるんです。これに対して、自分もそういうもんかとあんまり疑問を思っていなかった。現在は上海のギャラリーさんと契約している関係もあり、価格自体は自分で決めないケースもあるんですが、自分で決めているものについては、もっと価格も含めて考えてもいんじゃないかなと。コンセプトがしっかり組み込まれた作品じゃなかったり、過去作品で未熟すぎるものを「サイズ」というくくりだけで価格統一していいもんかと。だって、野菜とか肉は、古いものは20%引きとかなるじゃないですか。そういう問いがこの作品にはあります。
✓ 参考リンク タグボート(現代アートコラム一覧)
現代アートとしての強度はどれほどか
さて、ではこの作品がどれほどの強度をもっているかを考えてみましょう。これは自分で言うのもなんですが、全然強度がないですね。これを誰かがつくっていた場合は「がんばってるけど微妙だね」って言っちゃいますね。がんばっているというのは、「社会を揺さぶるぞ」という意志が多少なりと感じられるからです。こういう変なタイトルってあんま見かけないですよね。私の過去作品には「絵の具を使いきりたかった」っていう作品もあるんですが、タイトルがそんななだけで「こんな変なタイトルついてる作品はダメ」って言われちゃうので。それでも作品として強度がない理由は
1.作家のメインコンセプトの作品ではない
2.問いがありがち
私は細胞(生命)をテーマにした作家です。だから、「死をなくす」「物は生きている」「生命は生物、非生物とかっちり分けられるわけではなく、生命としての度合いがあり、それは愛着によって増す」などの生命に関する考えをつくりこんでいる作家で、こういうジェフ・クーンズ的アイロニックな作品を主戦場とした作家ではないんです。「絵の具を使いきりたかった」のほうは、物を生命と見立ているので、コンセプトにも沿っていますが、この2つの作品はそうではない。そうなるとやっぱり、テーマについて考え込んだというより、「さっき思いついた」感じがしてしまう。
問いがありがち、というのもそういう点ですね。アート作品に限らず、「違う視点で物を見るって大事だよね」とかってあちこちでよく言われますよね。問いがありがちだったとしても、気づかせる手法に意外性があれば、もう少し刺さりますが、タイトルをいじったくらいではやっぱり工夫がない。価格の方がまだおもしろいので、Oumaのネームバリューが上がった時にどうなるか、まで経過観察すれば、将来性は見込めるかな、といったところです。
でも、こうやって作品が問いかけてくることについて、自分で「なんでだろ?」って考えることで、自分の中に無限の答えが発見されてくる。これが現代アートの魅力の一つです^^
✓ 合わせて読みたい 現代アーティストになりたい人のための~初心者の第一歩から海外展開まで役立ち記事まとめ
みじんこは、現代アートのおもしろさを伝えるよ!ヽ(=´▽`=)ノ