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私のつくったごはんはゴミ箱に向かうかもしれない~社会の最小単位としての家族について考える

  • 2月 29 / 2020
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みじんこの活動

私のつくったごはんはゴミ箱に向かうかもしれない~社会の最小単位としての家族について考える

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お誕生日ケーキのオーダーをありがとうございます!ひさしぶりの日本なこともあり、野菜いっぱいのごはんをつくり、バースデーケーキとしました。今日は報告の記事を。ちょっと堅苦しい感じの文章を意識してみたんですがどうでしょう。もっと形而上的って書くべきだったでしょうか。

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家族の距離感

うちはもともと、家族仲がぜんぜんよくないんですね。私自身は特に父との仲がまるで近づかない彫像みたいな感じになっています。基本的には海外にいるので、めったに日本には戻りませんが、日本に帰ると数日は実家にお世話になり、装備を変更してまた旅立っています。実家に帰ると父はいつも餃子をつくってくれます。いつもは本当に数日しか家にいませんが、今回は荷物の受け渡しなどの関係があり、1週間近く実家にいるんですね(長い)。
なので、父の分も含め、食事をつくってみました。父は料理をしない人なので、食べるものもレトルトみたいな感じです。だからちょっとでも野菜が多く食べれるようにと思い、煮物や野菜たっぷりのほうとうをつくりました。

オーダーいただいたこともあるので、たまには親孝行でも、と思って、ちょっと高い食材など購入したら、金額が7千円とかだったのでびっくりしました。日本の食べ物、、高いね。。
「こんなにたくさん買ってもダメになっちゃうよ」と父に言われました。私はキンピラや炊き込みご飯など日持ちがするようなものをつくり、冷凍してとっておこうかと思いましたが「そんなことしなくていい」そうです。以前、母が買った野菜なども、母がいなくなった後にまとめて捨ててたこともあったので、「管理できないモノ」があるのは、父には受け入れられないのだと思います。管理できないモノとは、購入した日付、つくった日付が分からないモノです。
時計のように正確に生きている父はたぶん、自分自身の五感で食材の鮮度を見分けることができません。「てきとう」な量や「なんとなく」の時間は存在しないのだと思います。たとえば、うちにあるすべてのものには「購入した日」が書かれています。洗濯をつるすハンガーにも、電気ヒーターにも。何年経ったものなのかが、いつでもはっきりと分かるようになっている。これならどれだけ古いのかをいつでも知ることができます。それが父の好きな世界であり、そこに不規則や不確実性を持ち込むべきではありませんでした。しかし、私自身は不規則と不確実性をこよなく愛す存在なので、父にとっては私の存在自体がまったく受け入れが難しいものでしょう。

通じ合わないということ

父は自分の領分を侵されるのが大きらいです。私がいることで、残ってた牛乳が減り、ドレッシングが空になり、無洗米の量が減るのが、たぶん、あまり好きではないです。そのたびに、仕事が増やされたかのように的確に必要な量を買い足しています。私が突然、食事をつくったせいで、父が考えていた「献立」が変わってしまったようです。大量につくった煮物とごはんがあると伝えましたが、父は構わずグラタンをつくり、自分の食事としました。すでに購入してしまった食材は、的確に使われなければならないのです。
父は自分の生活リズムが乱されるのをひどく嫌いっています。そこを尊重すべきだったということが分かったので、次からは乱さないようにしようと思っています。それは物事が一つ、前に進んだ瞬間と言い表すこともできるのです。もうおみやげも買わないし、父の分の食事をつくることもありません。規律を可能な限り乱さない、というのが、この世界ではとても重要です。私が料理したおかげで、毎日のようにゴミを片付ける必要が生まれ、頻繁に部屋の掃除をする必要が生まれ、貴重な時間が奪われたと感じているでしょう。それは、私がこの世界に起こしてしまった災害の一つです。
今回、オーダーいただけたこともあり、自分でできる限りめいっぱい、父が喜びそうな食事をつくろうという努力をしました。私が食べて減ってしまったラーメンの代わりに、父が好きそうな海老ラーメンを買っておきましたし、タコの酢の物もつくりました。野菜を大量に買い、干ししいたけの戻し汁を使って野菜たっぷりの料理をつくったし、味噌もちょっとよさげなのを買いました。いつもと違うことをやれるだけやったというのは、とてもよかったです。少なくとも自分で「これではダメなのだ」と分かったことは、世界の発展にとってとても重要なできごとでした。こちらから何かを提示するのであれば、父にとって受け入れられる方法を取らなければなりませんでした。具体的にはしっかりと献立を決め、数週間前に提示しておくべきでした。そうでないと、父が決めている毎日の献立が乱れ、食材に無駄が出てしまいます。それは父の世界にとって、受け入れがたいことなのです。
父に対する愛情というものがあるのであれば、それは父が守ってきた世界を決して壊さないということではないかと私は考えています。しかし、少なくとも私は、丁寧にごはんをつくるというのが割と好きなのです。充分なサイズのキッチンがあり、丁寧にごはんをつくり、そして食べる。そういうサイクルが私にはアートと同様に必要なのです。たとえ世界を多少なりとも破壊する行為であったとしても。

他人として生きられないか

高校生の時、私は父にこう提案したことがあります。「こんなに仲が悪いのであれば、他人だと思って暮らさないか」と。家族だと思うから、要求したりされたり、遠慮のなさが出てしまう。まったく関係ない他人が一時的に共同生活してるのだと思えば、もう少し相手に優しくなれるのではないかと。しかし、この提案は当然のごとく却下されました。「家族なのになにをいってるんだ」と。
私は現代アーティストとして、家族とはなにかを改めて思考します。社会の最小単位が家族だとするならば、それは血によって分けられるべきものなのだろうかと。家族っていう単位自体が、必要な人はあればいいし、不要な人はなくてもいいのかもしれません。1人の子に母が3人いる家庭は存在しないのか。定番っぽい親子関係は必要なのか。

そんなことを考えましたよ。

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