Date Paintingシリーズで有名な河原温。起きた時間を記録したI GOT UPシリーズや、今日の生存報告を送り続ける I AM STILL ALIVEなど、日付や時間を表現しつづけた作家です。美術館の図録に書かれた経歴が、生まれた日から公開日までの日数しか書かれていなかった話でも知られてますね。
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こちらは上海で見かけた別の作家によるオマージュです。
1932年12月24日は河原温の誕生日、2014年7月10日は亡くなった日です。
Date Paintingは、起きて寝るまでの間にその日の日付を描き、その日中に作業が終わらなかったものは捨ててしまうという作品シリーズです。人間が日付や年齢みたいな概念を生み出したのがいつ頃かは分かりませんが、それのおかげでずいぶん社会はシステマティックになりました。
何日の何時に集まるとかがとてもしやすくなりましたし、年齢ごとに区分けしてまとめて教育することができるようになりました。
ところで犬猫の年齢はだいたい2歳で成人(ハタチ)、その後は1年に4歳ずつ歳を取るみたいなカウントをしています。ただ、細かい年齢はパッと見ても分からないので、誕生日の記録がなく、見た目からの判断だけだと、だいたい幼年・成年・老年の分類くらいしかできません。
分類っていうのは、人間が便宜上つくったもので、自然界にあったわけではないんですよね。分類は、文化で防御で偏見で判断を早めるけれども、そのおかげで自分たちは自動的に決められた分類の中で生きようとはしていないでしょうか。
たとえば、「日本人」という分類をされた時、自分はどうしてもその特質を抱え続けることになります。移民が多い国だと出身国はいろいろになりますが、外国人が日本で「日本人」と自分も他人も同様に思えるようになるのは、現在ではけっこう難しい。
私がアメリカに10年くらい住んだら、自分でも「アメリカ人」だと思えそうです。でも、金髪で褐色の肌の人が10年日本に住んだ時、自分のことを日本人だと果たして思えるでしょうか。また、周りの人はこの人は日本人だって思うでしょうか。
分類には、そういうイメージが宿ります。ということは、ラベルをつけられているだけで、自分にそういうイメージを自動的に付加してるということはないでしょうか。
年齢が「幼年」「成年」「老年」にしか分けられていなかったら。
性別が全員違ったら。
国ではない別の、複数の概念で人々がグループ化されていたら。
私たちはもっと自分へのラベル付けを疑うことなく自分につけ、その通りに生きようとしていないでしょうか。もしも時間がとてもあいまいだったら、私たちは正確に歳を取り続けることもないのかもしれません。
こちらはニューヨークMoMA美術館に展示されていた本物です。
Date Paintingにより、河原温は毎日生きて毎日死んでいたような気がするのです。一日一枚、時間だけを刻み続け、その一生を毎日終えていたような感じ。それが積み上がれば、月として年としてカウントできるかもしれないけど、そうしてまとめる意味はどこまであるのか。
一日を一生のように捉えて、その日の時間と向き合っていたような作品。重大事件が起きた日ではなく、自分の一生としての一日です。
年齢でも年収でも睡眠時間でも国籍でも性別でも居住地でも、自分をラベルしている何かを貼り替えてみたくなるような作品でした。
✓ 参考リンク 膨大な時間の記録 河原温の個展、NYグッゲンハイム美術館で開催
余談ですが、フランスのアーティスト・イン・レジデンスに参加した時、アートディレクターさんが河原温作品が好きだと言っていました。とても誇らしく感じたのですが、そう思うのも自分が「日本人」という共通分類にいるからだと思ってるからですよね。
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みじんこも生きてるよ!ヽ(=´▽`=)ノ