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環境によって教育されるということ~報道の自由度を確保するためにできることを考える

  • 7月 31 / 2019
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みじん講義

環境によって教育されるということ~報道の自由度を確保するためにできることを考える

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日韓関係についていろいろ調べていたら、Reporters without bordersというサイトを発見しました。ジャーナリストが殺された数や投獄された数なんかも出ていてびっくり。2019年の報道の自由度ランキングでは日本は67位。これはジャーナリズムの「質」を表すものではなく、「報道の自由度」を表しているもので、日本はオレンジ(問題あり)レベル。日本のメディアってあんまり自由に発言してないんですねぇ。今日はジャーナリズムについて考えてみました。

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自由度はなぜ必要か

メディアの自由度ってアートの自由度にも似たところがありますが、そもそも自由度があると何がいいか。一つ考えられる良い点としたら「急激に極端な方向に向かわない」ことでしょうか。たとえば「みじんこが一番エライ」という考えしかこの世になければ、みんなそれに従わないといけません。一番エライみじんこが「睡眠時間は一日25時間」と決めたら、みんなそれに従わないといけませんね。それはそれでそこそこハッピーですが、「みじんこが一番じゃないかもしれない」「そもそもエライってなんだ」「エライ人には従わないといけないのか」「むしろエライ人が従うべきだ」といういろんな意見が社会に混じりあうことで、みんながそこそこ生きやすくなります。アートで「みじんこしか描いてはいけません」と言われるより、なんでも描いていいと言われたほうが楽しいですよね、そんな感じ。
「みじんこエライ」だけが溢れた環境にいれば、そうなのかなーという気がしてきてしまう。これを私は環境による教育だと考えています。情報が偏れば偏るほど洗脳に近くなる。

参考リンク  Reporters without borders

自由の確保のためにできること

では、自由度が確保されるためにはどうしたらいいか。これはもう、自分にとって不快・不利益なものでも「ある」ところまでは認めることではないかと。情報の場合は、たとえば日本側に不利な情報や意見なども表に出てくることは歓迎すること。むしろ、AはBである、という一方向からの意見ばかりが溢れているときには警戒し、不利な意見を言う人を歓迎すること。どんな状態であってもマイノリティーの意見を出すほうがなにしろキツイのですよ。そして、マイノリティーをマジョリティーがつぶすことのほうが簡単なのです。だからこそ、耳に痛くても、マイノリティーの意見が「ある」ところまでは歓迎する。そうしておくと、自分がマイノリティーになった時に、守ってもらいやすいですよね。
なかなか自分で情報精査する機会ってないので、改めて外部情報として「問題あり」と言われて初めて自国のメディアについて「ええっ」て考えさせられますが、自国のメディアの自由度が下がるとなかなか面倒なんですよ。海外から情報取ったりしないといけないし(今は海外からの情報を取りやすいところはいいですが)。自国メディア「だけ」を頼りにしている場合、自由度が下がっているのにも気づかずに、自然に「同一」の情報を浴び続けていれば、そっちが正しいと思っちゃいますよね。基本的に、自分にとって心地よい情報を信じたくなるし、それは当然なんですが、微妙に危うい。この状態って洗脳に近いですからね。だからこそ、普段から「反対意見を歓迎すること」。そういう姿勢をみんながもつことで、「自国のメディアの自由度をみんなで守る」という意識です。マスコミが悪いって言ってしまうのは簡単ですが、そもそも反対意見が出しにくい空気感が社会にあれば、徐々にマイノリティーの意見は出しにくく、みんなが喜びそうな意見、当たり障りのない意見だけが溢れるようになる。それは「みじんこが一番エライ」と同じ状態なのです。賛同する必要はないけど、反対意見が「ある」ことはいつでも歓迎する。それによって自分自身が「みじんこ一番教」にハマらなくてすみます(できればハマってください)。
そもそも、たとえば現在の日韓関係だって、AはBである、みたいな単純構造であればこんなにモメません。日韓関係に限らず、自国メディアの情報だけをもって海外の人と話す機会があった場合、けっこう苦しいことになる。つまり、自分に不利な情報をあまり知らないから、そこを突かれた時に反論できないんですw 的確な反論も踏まえた議論が国内メディアで展開されていれば、そこから自分も学べるし、相手のことも理解しながら、こっちの主張も伝えられる。この「相手のことも理解しながら」がポイントで、これがお互いにないと議論は絶対に平行線なんですよ。これがどちらか片方に欠けている場合には議論しないほうがいいですね、マジで。沼になりますw

プライバシーと自由度

ちょうど京アニ放火事件で問題になってましたが、表現の自由とプライバシーの問題がありますね。被害者のお宅に押し掛けたメディアがあったようですが、こういったことはやはり控えるべき(てか見知らぬ人が家にやたらくるって普通に怖いよね)。この手のプライバシー侵害は昔から問題になってるけど、なんでなくならないんだろうね。なくなってないってことは、批判するだけじゃダメってことになりますよね。これについてはもしかしたら、ジャーナリストの中にヒーローが現れたら解決するかもしれない、とふと思いました。つまりは「メディアはこうあるべき」みたいなお手本となる人、みんなが目指したくなる人。
アートもたとえば子どものヌードとかが問題になったり、過激表現が問題になったりすることがありますね。プライバシーは守られるべき、しかし過激表現については棲み分けされればOKかもしれません。(そもそも、日本の漫画はけっこう残虐なものを含みますよ!)表現については何より「議論」が起こることが一番大事なことだと思っています。それは集合知を確保するアートの役割とも言えるかもしれない(議論が起こることで、集団全体の知恵が上がる、という意味です)。自分と同じ経歴をもった人が一人もいないのであれば、自分と全く同じ考え方をしている人はいないはずなのです。だから、「意見が違う」ことのほうが自然だし、だからこそ気づかされることがあってそこが一番おもしろいところ。
自分の意見を表に出すことが苦手。どうしても当たり障りのないマジョリティーに寄った意見、道徳的に正しい意見(=批判しにくい意見)ばかりになってしまう場合には、疑問形にしてみると口に出しやすいかもしれません。「ホワイト国除外は正しいのかな?ほかに道はないのかな?」「韓国最高裁の判決は本当に正しいのかな?」そういうところから、それっぽく批判を受けない言葉ではなく、自分の言葉を発するようにしていく。それは自分自身を発見するのと同じことなので、やり始めるとけっこう楽しいです。みんなと違う意見を自分自身がもっていることに気づくから。そしてそういう自分がマイノリティのまま楽しく生きるためにも、違う意見が「ある」ことを認める。自分と正反対の意見が出てくることを歓迎する姿勢が、自分の周りにあふれる情報の自由にし、また自分自身も自由にしてくれるのではないでしょうか。
今日はそんなおはなしでした。

合わせて読みたい  現代アートについて考える~初心者の第一歩から海外展開まで役立ち記事まとめ


みじんこは、一番エライよ!ヽ(=´▽`=)ノ

みじんくん と みじこちゃん

「みじんこしか描いちゃダメだよっ。」
「ダメなやつだよー」

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