日本文化として侘び寂びがどこまで馴染んでいるのか。日常に馴染んでいるとは考えにくいけど、日本人の多くがこの考えを誇りに感じているのも確かだし、他国に日本の文化を紹介する時に侘び寂びというのは欠かせないキーワードであるはず。今日はエストニアの風景写真とともに、侘び寂びについて、さらに考えてみます。
スポンサードリンク
侘び寂びとは何か
侘び寂びを「不可避の受容」や「精神の豊かさ」とし、それらを文化として日常的に感じているか、というとだいぶ疑問が湧いてしまうことが判明した昨今(詳細はこちらの記事をどうぞ)
んでは改めて侘び寂びってなんなんだろうっていうのを考えてみました。
✓ 参考リンク 侘び寂びは日本の文化ではなく、洗脳だろってことから考えるアーティストの仕事について
エストニアの田舎の風景を美しく感じる
エストニアのタルトゥの住宅街の様子ですね。建物は一部風化してるし、さび付いた部分なんかもあるんですが、私はすごく美しく感じます。こういう家に住めてたら素敵だなと。しかし、もしこれが日本で、都営住宅の壁がぼろぼろっとしてたとしたら、たぶん違う感想をもつ。そう「ぼろいなぁ、塗り直せばいいのに」
なんでそんな違いがあるかといえば、やっぱりエストニアの風景は自分にとって「日常」ではないんですよね。2017年からほとんど日本に戻らず、連続していろんな国に行き続けているのですが、それでも日本で暮らした時間のほうがずっと長いですから。日本以外の場所は自分にとって普通ではない。小さい頃とか都営アパートに住んでいたので、都営アパートなんて日常そのものです。
さらに言えば、知らない町を一人で歩いている時の「警戒心」が違うんですよね。エストニアはかなり安全ですが、それでも15年くらい前にはタリンで強盗なども多かったそうです(現地在住のアメリカ人さんが「日本の安全性すごすぎる」と言ってました)。
非日常のほうが美を見出しやすいというのであれば、「美」というのはある意味、「普通」ではないのかもしれません。人間は1秒間に1億個もの刺激を受け取っていると言われていますが、その刺激のほとんどを自動的に無視して生きている。注目してみたら、座っている椅子の質感や、キーボードの冷たさ、ジーーーっていう電子音みたいなのがいつでも感じられるはずなんですが、生きるのに必要な刺激ではないので無視している。「普通」になってしまったもの、あるいは危険でないと分かってしまったものは、私たちの目の前から自動的に消えていく。
つまり、私たちが日常に侘び寂びを実践的に見出すのであれば、「普通」を否定しつづけないといけない。毎日、自分の部屋のドアを開けたら、異世界が広がってるんじゃないかくらいのまっさらな目で世界を見続けないといけない。自分に慣れを許さないこと、普通を否定し続けること。それが侘び寂びの本質であり、その姿勢を持ててこそ、非日常の世界が「美」そのものになるのではないかと。
私には日本は普通そのものですが、こうして日本と違う場所にいることで、相対的に日本が非日常(=美)になったらいいなと思っています。
✓ 合わせて読みたい 現代アーティストになりたい人のための~初心者の第一歩から海外展開まで役立ち記事まとめ
みじんこは、美そのものです!ヽ(=´▽`=)ノ