先進国で「死刑」がある日本は文化的に遅れているという話を聞きます。あるいは、ペットショップのように生命が売り買いされることについて「日本は遅れている」と。死刑やペットショップの是非はちょっと別の議論なので置いておいて、この「遅れている」という表現があまり好きではないので、今回はそこを言及しておこうかなと。
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何を基準にして遅れているのか
死刑廃止にしろ、ペットショップ禁止にしろ、密猟禁止にしろ、それ自体はいいんですよ。信念をもって活動している人たちは素晴らしいです。ただ、気になるのは「世界から見て遅れてますよ」「今どきそんなことしてるなんて恥ずかしいですよ」っていう言い回し。それ、必要かな?と。というのも、何を基準に文化的に遅れている、愛護的に進んでいる、エコの考えが進歩的って決めてるんだろうと。その基準のほとんどって「西洋」が決めてきたものじゃないの、と。その際、もともとあったはずのその国の文化や考えはつぶされてしまってないの、っていうね。
分かりやすくいうと「食べ方」を思い起こしてみるといいかもしれない。フランスで手で食べてたら「マナー違反」になるかもしれないけど、スリランカでは手で食べるのが「マナー」です。これについて世界的に見て「ナイフとフォークを使うのが進んでいる」って言う人はいないですよね。文化をリスペクトしてその土地に合わせる、という考え方になるはず。
長い歴史のもとに培われてきたものに対して、どっちが進歩的、ということを言う人はいないのですが、エコや愛護、あるいは現代アートなんていう割と人類の歴史から見たら最近生まれたことについては、「どちらのほうが進歩的」という話が出てきてしまう。まぁ、現代アート自体は日本発祥ではないし、他国から学ぶべき部分はたくさんあるので気にならないのですが(現代アートは科学と同じで先人から学ぶことが多いため)。哲学的なものについて、あるいは、自然が正解ではないものについて、どちらが進歩的と言えるのかどうか、ということですね。
特に「愛護」については、日本人と西洋人では考え方が違うんじゃないかなって思うんですよね。たとえば安楽死について。日本では合法化されていませんが、海外ではヒトの安楽死も本人の自由意志でOKな国があります。動物についても、欧米では苦しむ病気だと「安楽死させたい」と願う家族が多いんですよね。日本人は介護や金銭的負担で家族が辛い状況であっても、欧米と比べたら安楽死を選ぶ人は少ないです。
✓ 参考リンク 日本とはこんなに違う!外国人が考える動物(ペット)の福祉とは【後編】
ちょうど、あいちトリエンナーレで日本のジェンダー問題(ぶっちゃけ女性差別)について取り上げられていますが、私自身は海外でアート活動をしていて、女性のほうが不利だと感じることはほとんどありません。もう作品がすべて。ただ、海外にいて「白人からのマウント」は感じることがあります。捕鯨問題について語れないとかもそうなんですが、白人(男女問わず)の自分たちが絶対正義的な考えにぶつかることは、たまーにあるんですよ(頻繁ではないです、念のため)。そしてこれ、日本の女性差別が無意識下で行われているように、たぶん、本人たちは差別的であることには気づいていない。同時に、この差別意識って自分たちも無意識下に持ってるんじゃないかと。アフリカやアジアに対して感じていないか、あるいは西洋やアメリカを素晴らしいとして無条件に追従しようとしていないか。「遅れている」という発言がそれを表しているんじゃないか。(私は日本にいると「中国=コピー」っていう発言が気になってしょうがないです)
こちらはタンザニアのザンジバルのマンガプアニっていうところにある豪です。奴隷にされた人たちが詰め込まれていたそうで、この後、海から船に乗って各地に送られていったそう。彼らがした労働は、誰を発展させたんでしょう。
✓ 参考リンク アフリカの植民地化 世界史研究 > 帝国主義とアジアの民族運
「遅れている」っていうのは、ゴールがAという場所で、みんながそれに向かっていた場合に生まれる表現です。ゴールが一緒の場合は、遅い人、早い人っていうのができますよね。ただ、スタートしたのがいつかを含めて考えたら、もしかしたら遅れてそうに見えるほうが、時速換算では早いのかもしれない。しかしそもそも、向かうべき先は1つなんでしょうか? たとえば、スリランカにはダーネという習慣があります。自分の誕生日に孤児院の食事を寄付するというのがダーネ。一度始めると今年からはもうナシとはならないそうで、毎年その人から寄付の食事がもらえます。スリランカの孤児院の食事はそうして賄われている。誕生日に孤児院に遊びに来て交流していく人もいます。この話を聞いて「誕生日に自分がプレゼントをもらわずに誰かに奉仕するなんて文化的に進んでる!世界はみんなスリランカにつづくべきだ」ってならないですよね。
世界の歴史は複雑に絡み合っていて、何がいい悪いではないです。だからね、遅れてる・恥ずかしいという言い回しではなくて「こっちのほうが楽しいし楽じゃない?」「私はこうしたいよ」「こういう手もあったよ」っていう言い方で一緒に考えていく姿勢のほうがやさしいんじゃないかなって思うのです。
2018年にオウム事件の死刑が執行された際に、ドイツのベアベル・コフラードイツ連邦議会議員のコメントが素敵だなと思うので、ここに引用しておきますね。
2018年7月6日
ドイツ人権政策委員談話
元オウム真理教教祖および元教団メンバーに対する死刑執行について
7月6日、日本において元オウム真理教教祖および6名の元教団メンバーの死刑が執行された。オウム真理教は1995年、東京で地下鉄サリン事件を起こし、同事件では多数の死者と何千人もの負傷者が出た。このテロ事件から20年以上が過ぎたが、事件の影響・後遺症に今なお多数の人々が苦しんでいる。
私たちは、この忌まわしい犯罪の被害に遭われた方々や犠牲者のご家族の方々の気持ちに寄り添いたい。その途轍もない苦しみが忘れ去られることは決してない。
他方、この犯罪がいかに重いものであろうとも、死刑を非人道的かつ残酷な刑罰として否定するというドイツ政府の原則的立場は変わらない。従って、ドイツは今後もEU各国とともに、世界における死刑制度廃止に向け積極的に取組んでいく。
ドイツと日本は、長きにわたり強い友情で結ばれてきた。その深い結びつきは、法の支配、民主主義、人権の尊重等の共通の価値に支えられている。だからこそ、意見の違いを率直に指摘するこもきわめて重要だと私は考える。東アジアにおいて価値を共有する最も重要なパートナーである日本と、死刑制度廃止の是非について一層活発な対話を進められるよう願っている。
✓ 参考リンク 日本における死刑執行について
ドイツはナチスの経験もあってか、さまざまな刑があります。ドイツ人の友人に聞いたところ、「ハイル・ヒットラー」のポーズをすると刑務所行きだそうです(もちろん文脈による)。あとは日本や韓国でよく見かける生け簀の中に魚やウナギがうようよしている売り方もNG(虐待扱いだそうです)。そういった違いがある中、「死刑廃止が自分たちの立場だよ、日本が大事だよ、辛いのも分かるよ、話し合いしようよ」っていう態度なんですよね。
人が多様であるように、世界の国も多様。そしたら、その国が目指すべきゴールは他の国のゴールに合わせなくていい。遅れてる、恥ずかしいではなく、自分の国にあったゴールはどこか。そういう考えで意見を出し合えると、やさしいよねっていう話でした。
✓ 合わせて読みたい 現代アーティストになりたい人のための~初心者の第一歩から海外展開まで役立ち記事まとめ
みじんこは、文化的に先をいってるよ!ヽ(=´▽`=)ノ