書家の日野公彦さんと「書く」ことについて話をしました。これをきっかけに、自分でも「書く」について考えてみましたよ。
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「書く」の本質とは何か
日野さんは「対象を記憶から紡ぎだす、何らかの基準をもって書くかどうか選ぶ、そして書く」を「書く」として捉えていると言います。
私はこの「紡ぎだす」という部分についてちょっと懐疑的なんですね。というのも、ベンジャミン・リベットの自由意志についての研究で、なんらかの行動が起こり始めてからヒトの意識に「行動をしよう」という意思が生まれる、という研究があるからですね。つまり、1.手を伸ばす信号を腕に送る、2.手を伸ばそうと考える、3.実際に手を伸ばしてモノを取る、の順に起こっていることが証明されている。じゃあ1を起こすものはなにか、というのを、私は外部環境ではないかと考えています。目の前のものをコピーしてしまうミラーニューロンがヒトの脳にはあるし、ヒトは無意識のうちに周辺環境の影響を多く取り入れていますから。
すると、記憶から書きたい言葉を紡ぎだし、選んで書く、という一連の行為を「書く」とした時に、環境依存な要素が強い気がして、自分にはあんまりピンとこなかったのです。もちろん、基準は人それぞれなので「書く」をどう定義するかはその人次第です。
✓ 参考リンク ベンジャミン・リベット(Wikipedia)
書く、とは思考すること
では、私なりに「書く」の本質は何かと考えてみると、それは「思考する」ではないかと思うのですね。日野さんは「書く」を言語を書くことに限定して考えていたので(線を引くような行為は「描く」)、その定義で言うと、言葉を書く理由はなんだろうと。そもそも、ヒトは言葉がないと考えることができないんですよね、感じることはできても。言葉はコミュニケーションツールではないか、という意見もあるかもしれませんが、コミュニケーション「だけ」だったら絵や音楽もその役割を果たせます。ほかにも、恋人と手を握っているだけで分かり合う感じとかは、言葉を使わなくても伝わるコミュニケーションですよね。
しかし、言葉がないと思考することができません。私は、思考とは自覚であり、ヒトは自覚するために書くのだと考えます。最近、前田裕二さんの「メモの魔力」という本が流行ってますね。ほかにも勉強法などで「手書き」をお勧めしている本はたくさんあります。そもそも内容が同じであればタイピングしたほうが早いのに、ペンタブなんてのが生まれちゃうし、タブレットの上で書いてるのに筆圧とかまで感知されるようになってる。もうデジタルなのかアナログなのか分からないよね。
感性は室内灯、思考は懐中電灯
アートを鑑賞する際、感性で見るのがいいー、みたいな話が上がることがありますが、思考ってなにかなって考えた時に、私は「感性の集中」なんじゃないかなって思うんですね。電気に例えるとこんな感じ。
感性は室内灯で、思考は懐中電灯。感性は全体を明るく照らすけど、全体が明るいと、意外と細部って気にしなくないですか?家の壁の質感、模様、傷。丁寧に観察してみると、壁に貼られた紙が曲がってたり、知らない汚れがあったり、気づいていないことっていっぱいありませんか? 思考も同じ。日常生きる中で見逃しているものにスポットを当てるという役割があります。とはいえ、それならば頭の中だけでも思考できているのでは。あえて「書く」必要があるのでしょうか。
ヒトが毎日考えていることの9割は同じことだ、なんて話がありますよね。脳内を繰り返し流れている「何か」は、果たして「思考」なのか。もしも毎日おんなじことを繰り返して考えているのであれば、それって室内灯と同じで、自覚はしていないですよね。部屋の一部を丁寧に観察してみた時と、毎日の部屋をぼんやり感じているのとの差って歴然。ヒトは「書く」ことにより初めてその対象物の存在を認識し、初めて「思考」できるんじゃないかと。つまり、「書く」=「思考する」=「感性の集中による対象の自覚」であると考えてみましたよ。
今日はそんな「書く」と「考える」にまつわるお話でした。
みじんこは、考えないよ!ヽ(=´▽`=)ノ