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アートとアーティストは果たしてどこまで「一般」に必要とされているのか~アートと地方と助成金について考える

  • 10月 15 / 2018
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みじんこアート, みじん講義

アートとアーティストは果たしてどこまで「一般」に必要とされているのか~アートと地方と助成金について考える

韓国で若い女が溶けるように死んだ。名前だけは国際的な感じがする誰も知らない賞をいくつか獲り、無責任な友人の言葉に寄りかかったアーティストだった。所属ギャラリーがあるわけでもなく、とはいえどこかに売り込みに行くでもなく、積み上がったプライドが扉をふさぎ、部屋から出ることができなくなって餓死したと聞いた。四畳ほどの部屋のコンクリートの壁には、指でこするように消した鉛筆の跡が残されていた。部屋の中に残された無数の作品は、溶けた彼女自身が浸み込んで腐臭を放つ。食べ物がなくても手放さなかった携帯電話。母親に送られた最後のメッセージには、こう書かれていた。「やっとできた。タイトルは『手と骨』これでダメなら、もうアートはやめようかと思う」
彼女の最後の作品は、今も見つかっていない。

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こんにちは、世界をアート旅中のアーティスト、Oumaです。冒頭のテキストは私の創作です。なんかが始まりそうな小説風を無駄に醸し出してみた感じです。とはいえ、完全創作ではなく、「極貧の中、亡くなったアーティストがいたのをきっかけにアート助成金制度が始まった」という話を韓国で聞いたんですね。ほんとか嘘かは調べてませんw そんなわけで今日は地方とアートと助成金について考えてみました。

地域の活性化、みたいな目的でアートにお金が使われることはあちこちであると思うんですね。アメリカなんかは国を挙げてかなり大規模にやっていて、そのおかげで町が魅力的になり、観光客がいっぱいやってくる、みたいなこともあります。実のところ、アートはお金になるし、金や石油のようにいつかなくなるかもしれない限りある資源ではなく、アーティストがいる限り無尽蔵です(クオリティは玉石混合だとしても)。自国のアートシーンが充実すれば、アートを輸出することができるし、それが税金として国に還元、あるいは作品見たさに国を訪れる観光客の誘致にもつながる。有名作家の作品をつくるための「雇用」が生まれることもあるしね。
そんなわけでなんだかんだ社会の役にも立っているアートなんですが・・・。結局、役に立つのは有名作家の場合だけじゃない?って思っちゃいますよね。もちろん、畑にたくさん種を撒かなければ、収穫できる果実自体が限られてしまいます。だからこそ、種を撒くという意味での発表機会、活動費の援助が必要なわけですが、果たしてそれはどこまで具体的に役に立っているのか、という気がするのです。種を撒いているのか、何もない土の上に水を撒いて仕事した気になっているだけなのか。

アーティストへの助成金は本当に役に立っているのか

国から地方にアート支援のための補助金が出るので、それを使い切るために「なにか」をやって活動費を使い、翌年も補助金をもらう。割といろんなところでありそうな話を韓国でも聞きました。個人やグループへのアート助成金制度は日本でもあちこちにありますね。各国でアーティスト・イン・レジデンスをやっていると、助成金をもらってレジデンス参加しているアーティストにも多く出会います。個人のプロジェクトに100万円くらいの助成金をもらっているアーティスト(オーストラリア)、2年分の活動助成金が出ているアーティスト(スウェーデン)なんかもいて、驚くばかりです。
しかし、その助成金ってどこまで意味があるんだろうなぁという思いがあるのも確か。なぜそう思っちゃうのか。

アーティストは果たして何を目指すべきか

2016年に初めてバルセロナのアーティスト・イン・レジデンスに参加して以来、ロシア、ドイツ、フィンランド2か所、上海、デンマーク、フランス、韓国のレジデンスに参加。ほかにロサンゼルスやニューヨークに自主的に学びに行く中で、多くのアーティストに会ってきました。作品が売れてそれだけで生活ができているレベルなんてごく一部。多くのアーティストは別に本業があったり、生活を切り詰めたりしているわけで。レジデンスに参加しているアーティスト全員が本気で専業目指しているのかというとそんなことは全くなく、趣味の延長であったり、アート支援の少ない社会に不満を述べていたり。時には、自分の作品は素晴らしいから高額で買われるべきだ、自分はアーティストとして丁重に扱われるべきだ、というようなことだってある。そういうアーティストは、自分のこと、自分の表現やコンセプトのことしか考えていないような気がしたんですね。
作品の解説を聞いて、なるほどおもしろい視点だなー、そんなことあるんだーとぼんやり思ったとして、でも結局のところ、どこかつまらなく感じてしまうのは、その作品によって社会にどんな影響を与えようとしているのか、そういう全体性への熱意が感じ取れないから。高尚で深い作品創ってる俺、という気持ちが透ける作品ほど興ざめする。
私はもともと、自己表現のアートが好きじゃないんですね。自己表現の作品なら、一人で趣味でやってろよと思うタイプ。人に見せようとする、自分の作品を見に来てもらいたいと思うのなら、なぜ足を運ぶ人のことを考えないのかと。もしも国から助成金をもらったとするなら、それは税金から出ているわけで。それこそ、社会に何かを還元できないか考えるべきなんじゃないかと思うのです。仰々しいことではなくて、自分の作品が誰かの人生について考えさせ、今日ちょっと高級なスイーツを買うきっかけになるかもしれない。そういう、自分の作品から派生していく出来事を、アーティストはどこまで想像できているのだろうかと。
人それぞれ目指しているものは違うだろうけど、どんなに今、有名になって作品が高額で売れるようになったとしても、100年も経てば誰も知らない人になっているわけだから。それなら私は、土の上に大きな石を置いて歩くような作品づくりよりも、広い水面に小さい石を投げ込んで、その波紋がずっとずっと向う岸まで届くような作品づくりをしたい。

アートは実のところ必要なのか

無名のアーティストの作品が、一般に必要とされているのかどうかを考えるなら、ほとんど必要とはされていないと思う。アーティスト支援でどこかの町に絵を描きました。どこかの町に彫刻を残しました。なんとなくそれっぽく活動履歴みたいなところに掲載されて、小さな町のニュースに取り上げられて、来年の助成金獲得のためのほどよい口実に使われて、それで静かに滅びていく。その町の人たちにとって、そのアートはちょっと日常の中で息継ぎをする程度の物として扱われる。
それはアーティストとしては多少残念かもしれないけど、それで十分なのではないかという気がしている。私はその人が自分の人生を楽しく生きてもらえればそれで十分だと思っているから。作品などそのための一瞬の流れ星として視界から消え失せればよい。
世の中に共有されるエンターテイメントは増えてきて、無料で楽しめるものもいっぱいあります。そういうのを次々に食い散らかしてしまうわけだけど、なにより一番楽しいのは、やっぱり自分で創ることなんだよね。だから創りたくさせてくれるようなものが、ジャンル問わずアートと呼ばれるべきものかなと思っています。そしてそれは何かというと、シンプルにヒトの活動なんですよね。誰かが何かしているということ。人は人を見て、真似るようにして動く。だから本当の意味でその地域に残すべきアートは、ウズウズするような熱量かもしれない。

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みじんくん と みじこちゃん

「脈絡がないよっ。」
「てきとーだよ!」

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