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日野公彦作品を読み解く~置かれる場所によって意味が変わる「言葉」たち

  • 5月 08 / 2019
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日野公彦作品を読み解く~置かれる場所によって意味が変わる「言葉」たち

日野公彦さんの作品は、私にとって非常に難解な作品の一つです。しかし、先日、ご本人から多少のヒントをいただきまして、ようやくその作品のおもしろさの一端が分かってきました。今日はそのあたりをご紹介します。※作品画像はご本人提供です。

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場によって存在する言葉

看板シリーズと呼ばれるこちらの作品。

いやー、なかなかツライ。分かんない。どうしたらいいんだ。私はもともと、美術出身でもないし、アートのセンスがあるわけではないんですね。なので、ステートメントとか本人のバックグラウンドがしっかり分からないと、作品の良し悪しってなかなか分からないです。画面についてのみ言えば、そこそこ数は見てるし、海外にいてもギャラリーのメールが届くようにしているので、常に勉強はしてるんですが、日野作品はやはり異質。同じ作品はこれまで全く見たことないです。だからといって、「良い」のかどうかは分からない。なんだこれはと思っていたら、ご本人からこのようなコメントをいただき、ようやく光が差していました。↓

例えば風景から言葉拾って書いてる作品あるじゃないですか。風景書きたいんじゃなくて言葉を書きたくて書いてるんですよね。その場の中に置かれてしか成立しない言葉が山ほどある。ああいう看板とか街中に書かれている言葉は大概そうですよね。その中に引っかかったりするものがある。世の中にある言葉って、環境や場所、対象などの前提がないと、身勝手だったり押し付けがましかったり、ともすれば暴力的だったり脅迫的ですらあったりする。
そういう言葉が気になり出したり逃げられなくなった時点でその人にとっては、すでに言語を何らかの形で処理しなければならない状況が生まれている。そんな時には多分頭の中で繰り返したり声に出してみたり書いてみたり写真撮ってみたりするしかない。そんな時僕にとってはその言葉を成立させる前提の一部となる「場」ごと言葉を切り取って書く行為が、否応なしにインプットされた言葉を処理しやすかったんです。

その場に置かれてないと成立しない言葉っていう視点が非常におもしろいな、と。たとえばこちらの画像を見てください。

こういう看板って割と町中で見かけると思うのですが、これが「月」に置いてあったらコントになると思いません?宇宙飛行士がやっと月にたどり着いたら、「ローンOK」っていう看板がある。そんな状況ありえないからコントになる。たとえば時代が変わって、月がすごく発展して人々がたくさん移住しているような状況だったとしたら、「こんなところにまでローンとか書かれてる」とか「最近、空気が高騰してるからなぁ」みたいなリアルになる。じゃあ奴隷市場みたいなところに立ってたら? 人がつながれている風景の中にローンOKの看板が立ってたらブラックユーモアですよね。この作品には言葉以外に余白を多く取られているから、言葉が置かれている場所を「さまざまに想像する」余地があるんです。まずそこがおもしろい。それにより、置かれる文脈によって、言葉がまったく違う意味を持ってしまうっていうことが表されています。作品の中の「ローンOK」という文字は同じなのに、その他の背景は画面には一切書かれていない。もとの意味をもつべき文脈としての「場」から切り離されたおかげで、言葉自体の解釈が広がっています。同時に「脅迫的」という部分も薄まったと思うんですね。いや、薄まったというか強まったり弱まったりが鑑賞者に委ねられることになります。

「脅迫的」ということについてもう少し。商品を売るためのコピーライトとかそうですが、はっきり「買え」と言っていない売り文句って世の中にけっこうたくさんあるわけですよ。「ありがとう、いい薬です」とか「はじめてでも安心」とか。スーパーとかで見かける「今、売れてます」とかもそうですね。「今、みんなが買うほど売れてるからこの製品には信頼性があります、だから買ったほうがいい。てか、買わないとあなただけ仲間外れですよ?」って思ってるのが本音だったとしても、そうは書かない。はっきり言わずに「売れてるよ―売れてるよー平気だよー平気だよー買った方がいいよー仲間になりなよー」っていうのを呪文みたいに擦り込んで買わせるわけですよね。これは確かに脅迫的だし暴力的。ではなぜ、「スタバのストロベリーフラペチーノのグランデサイズ片手に一日中、手塚治虫漫画を読む資金にするので作品買ってください」と言わないのか。それが本心だったとしても、そう言ってしまったら「売れない」からですよね。あるいは、「売れない」と思っているから。

フレンドファンディングpolcaとか見てても、自分のためにパソコン買ってとか旅行費用にしたいとかは、ほとんど資金が集まらない。でも、結婚記念日に妻とどこかに行きたいとか、怪我をした妻にプレゼントをしたい、みたいなものは比較的金額が集まりやすいんですね。つまり、人は誰かを応援してる人、人のために活動してる人に好感をもち、それなら応援してもいいかなってなりやすいってこと。「パソコン壊れたので買い直したいです」とかをpolcaで資金提供募っても、大事故にあってすべてを失ったとか、小学生だけど起業したいとか尖ったバックグラウンドをもたない限りは、まず集まらない。まぁ普通に「自分だって買いたいのに」って思いますよね、そういうの見ても。

こういったイメージ合戦の中で、私たちは空気の読みあいをしています。そうしているうちに、けっこう本心を言えなくなってしまってると思うんですね。先ほどの「スタバで漫画」も、あの書き方だと自己中に感じますが、たとえば「私は手塚治虫先生のBLACK JACKという医療漫画がとても好きです。生命について考えさせられるこの本は私がアート作品をつくる上でバイブルともいうべき存在になっています。私の作品を買ってもらえたら、この作品をさらに読みこんでアート作品に活かし、また手塚漫画の良さを伝え、手塚プロダクションに少しでもお金が入るように、漫画を購入して周りの人に配りまくります!」みたいな感じだったら、受け取るイメージはぜんぜん違いますよね(配らないですよ、念のためw)。そもそも、スタバや漫画にお金を払うということは、本人も幸せになってるけど、スタバにも漫画家さんにも出版社にもお金が入るわけなんですよ。そしたら、一日中ストロベリーフラペチーノ片手に漫画読んでることだって全然悪くない。でもね、「そういう理由でお金集めるのは良くない(=働いて稼ぐべき)」っぽいイメージが社会に根付いている(だいぶ変わってきてはいると思ってますが)。日野作品を通じて、ここに改めてはっとさせられたのです。

もしも、その行為の先にあるものを想像できたら、世界は違って見えるかもしれない。すでに社会には「きっとこうしたほうがいいだろう」という暗黙の了解があって、私たちはそれにそって行動してしまっていないか。また、自分自身が使っている言葉や態度は、今、自分がいる環境(文脈)でない場所に置かれた場合に、どういった意味をもつのか。言葉は同じ、私も同じ。しかし、場が変わるだけでその意味は全く変わってしまうかもしれない。日野作品からは「言語=選択された言葉×環境」という言語という概念の拡張を感じるし、看板シリーズは余白にこそ、強い影響力があります。
すごく好きな作品シリーズですね^^ 今後、日常的に見るいろんな看板が気になりそうです。

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