最近出してる線画のシリーズの作品解説です。世界を1つの生命として表した「今日の世界くん」シリーズとはまた違う物語作品です。
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物語という病
幼い頃から妄想グセがあった私は、トイレに1時間くらい妄想したままこもってしまって、誰もいないと勘違いした母によく電気を消されていました。高校生の頃は自転車の前かごに入れた荷物の大袋が落ちたのに気づかなかったこともあるほど。想像の世界が楽しすぎて、現実がいつもおろそかになっていました。大学時代に、こんな経験をしたことがあります。家の近所でわんこの散歩をしていた時、狭い道を車が通りかかりました。わんこを足の間に挟んで道路わきに寄せ、車が通りすぎるのを待った時、ものすごくいろんな音が聞こえたんですね。虫の声や風の音、草がこすれるような音です。驚くほど大音量で。毎日通っていたのに気づかなかった。それは、私が頭の中の物語に集中していたからです。
それ以降、物語のON、OFFを切り替えられるようになったので、いつでも外の音を聞くことができるようになりました。ぶっちゃけそれまでは、外部の刺激がほとんど入ってきてなかったんですよね、自分でも知らなかったですが。
どんな物語かというと、たとえば目の前にインクの瓶があります。それを見てるとその蓋が勝手に開いて、中から小さくて黒いナメクジみたいなのがにょきにょきっと出てくる。そいつは空中を二本足で歩き始めてこちらに来る。そして「サンタさんってホントにいる?」って聞いてくる。私は「いるんじゃないかなー」って答える。するとそいつが「マジ?何人?」と答える。「いや、一人だと思うんだけど」「あーそうなんだー」って言って彼は空気の上を歩きながらテクテクと窓に向かっていく。酸素の上は割と歩きやすい、と唐突に振り返って教えてくれる。彼(?)が歩くたびに、テクッテクっていう音がするんですよね。その音が気になってブログ書きに集中できない。あ、今気づいたけど、彼がこのまま窓から逃げるとインクの量が減る気がしますね。
時にピンクのムシたちがバターを運んでいたり、いつものドアが草原に繋がっていたりする。それが映画を見るようにいつも映像で見えているんですね。私が物語を書けない理由の一つは、その見えてる映像が永遠に溢れてしまうので、文章が追いつかないということです。映像を文章化するには時間がかかりますから。また、たとえ物語にしたとしても、それが「おもしろい」かどうかは別の話です。というのも、映像として見えている物語は、なんかの目的があるとか成長があるとかではなく、単なる日常だからです。簡単にいうと、野生のシカが人間の生活を見ているようなもので。「あいつら野菜炒めてやがるぜ」とか思うだろうけど、それがおもしろいと思える人はたぶんそんなにいないですよね。また、結論があるわけでもないので、暮らしが淡々とつづいていくだけなのです。
物語に蓋をする
大学時代に300本くらい童話を書いて全部落ちてる自分は、そのうち考えます。こうして溢れ出してくる物語をとても記録しきれない(当時は一部の話をメモしてたことも)、もう物語を考えないように蓋をしようと。蓋をすることで脳内に保存できると思ったんですね。記録できない分があふれ流れて消えていくのが防げるなら、そのほうがいいんじゃないかと。そうして数年。物語を生み出さなくなってだいぶ経ってから「たまには開けてみるか」と思って蓋を開けてみました。そしたら、空っぽになっていたんです。何も出てこない。前は本当に、一歩踏み出したその足跡から物語が生まれるほどだったのに。長い間使わなかったせいで、脳の物語回路が細くなってしまったんでしょうか。自分でも驚くほど、自動的に物語が生まれなくなってしまった。
実のところ、今でも子どもの時ほどの妄想力は戻っていません。いや、もっと制御できるようになったと言ったほうがいいかもしれない。自動的には生まれないけど、集中して目の前のものを見ているだけで、そこから何かが生まれてきます。これはそういう彼らの暮らしの記録です。
みんな、今日からトイレの水は使い放題だ。マジで!これでやっとミサイルが流せる。
小説としてはぜんぜん成り立ってないかもしれませんが、彼らの暮らしを文章で紹介するのもいいかなーと思っています。こんなに生き生きと暮らしている彼らの生活をどっかに残したいので。
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みじんこも生きてるよ!ヽ(=´▽`=)ノ