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私たちは集団を生命の集合として想像できないのではないか、トム・サックス

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私たちは集団を生命の集合として想像できないのではないか、トム・サックス

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ニューヨーク生まれのトム・サックス作品から、私たちは何に生命を感じるのか、について考えてみました。

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美術手帖では「手づくりの既製品」をテーマにブランドロゴを使った作品を発表してたことが紹介されてましたね。

参考リンク  トム・サックス

近年では宇宙とか茶の湯とかをテーマにした作品づくりをしていましたが、とても好きな作品はこちら。
NASAのロゴが入った器なのですが、手でつくった感がハンパないですよね。縁のところがふにゃりと歪んでいたり、手の痕が残っていたり、すごくまんべんなく全体に、一生懸命つくった感じを込めてつくられています。(つくろうと思えば絶対、正確な円形でつくれそうなのに!)

こちらの写真は、2016年10月に東京の草月会館で開催されていたトム・サックス「Heaven」から。

こちらは綿棒とかタンポンとか歯ブラシとかを使ってつくられているもの。この展示、オープニングに行ったらトム・サックスさんご本人がいらして、いろいろ話を聞くことができました。

この作品に関しては、日常にある物を使ったって言ってましたね。近くで見ると、くっつけてる接着剤みたいなのがベタベタしてるのも分かるし、拡大して見た時に「キレイ」な感じはしなくて、しかし、全体を見るとものすごく美しいバランスによって成り立っていて、設計されてる感じがとてもします。

改めて器を見ると、やっぱりどこかあったかい感じがする。この作品って、指の痕がいっぱいついているので、作家の存在をすごく想像しやすいんですよね。

こちらだと、機械パーツと組み合わされているため、「あったかい」みたいな感じはあんまりしないなーと。
そう考えると、指痕がついているっていうのは、人を想像させる要素の一つなんだと分かります。「へたさ(=法則がない感じ)」も自然を感じさせる要素の一つだと思っているのですが、この辺はたぶん、自然の中で平行線とか直線とかを視覚的に感じることが少ないからかなという気がしますよね。

でも、よーく考えてみると、こういうスピーカーだったり刀だったりのほうが、広い意味で制作に関わっている人数は多いはずなんです。器は一人でもつくれるかもしれない。せいぜい釉薬をつくったり窯をつくったりする人がいるくらい。でも、スピーカーや刀や音が出るなら電力やなにやらは、どう頑張っても一人じゃつくれないですよね。
ってことは、こっちの作品のほうが多くの人が関わってできているはずなのに、「一人の存在」を感じる器のほうがなんだかあったかく感じてしまう。

これはまだなんか人がつくった感がします。
直線の多さのせいかなぁとも思ったのですが、そうでもない気がしています。

丁寧に想像するなら、スピーカーの上に刀が乗ってるやつは、刀をカーンカーンって打って鍛えている人がいて、スピーカーのパーツを設計したり切り出したりしている人がいて、電力発電所を管理している人がいて、という感じですよね。
こうやって複数の人を丁寧に想像してみたとしても、私にはそれが作品のあたたかみにはつながらなかったです。

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ということは、人の指痕や足跡など痕跡が残っているとあたたかく感じる、というのは、生きている間に後天的、公式的に学んでしまった結びつきなのでしょうか。
そもそも、人の存在がなぜあたたかいのか、と。
ヒトの存在=あたたかい
という公式を学んだというだけで、ただ反射的に吐き出しているんじゃないかと。

noteというプラットフォームの下書き保存の時に出てくるメッセージが、ランダムになったことをnoteユーザーの方はお気づきだと思うんですが、ものすごく「あたたかい」んですよね。
下書き保存をすると「公開を楽しみにしてます!」「連続投稿してみましょう!」「たまには休んでね!」などのコメントがランダムで出てくるんです。
最初の設定は人間がやったと思うのですが、あとはランダムでプログラムが出しているはずなんですが、毎回とても「あたたかく」感じる。がんばろうという気になる。
この辺りから、私たちは集団を個別の生命として想像できないんじゃないか、と考えました。

自分自身が単体の生命な分、相手も単体の生命であったほうが、その存在を想像しやすい。それは実際の生命であるかどうかというより、「単体の生命を感じさせるものかどうか」という感じです。
noteの自動コメントは一人の人が言ってくれる感じがします。
でも、機械のような複雑なものは「一人感」があまりない。

ではもしも、社会が「くまもん」のようにキャラクター化されたらどうでしょう? 集団が一個の生命っぽくキャラクター化されていれば想像つきやすいですね。
そして、生命を感じさせるものは、自分にとってあたたかく感じる。ヒトは生命性があるものをあたたかく感じるようにできているのかもしれません。
では逆に、自分が社会のような集合体だと想像した時はどうでしょうか。これは私にはちょっと難しい想像なのですが、たとえば起業家のように多くの人の人生を担っている立場の方の場合には、社会を対等の生命体として想像しやすいのかもしれません。

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私は今、「社会治療」というコンセプトについて思考しているところなのですが、これは社会全体を生命体とみなし、人々を社会を治療するドクターであり、同時に社会から治療される患者であるとする考え方です。このコンセプトを実感するためには、自分自身に社会と対等な集合生命体であるという自覚、あるいは社会をキャラクター化して強制的に一個の生命体に仕立てる、というのが必要なのかなと思った次第でした。

トム・サックス作品については、ブランド名を使っているところが興味深いので、今回は自作のテーマ合わせで考えてみましたが、ブランドについても改めて記事にしたいなと思ってますよ!

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