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アートは人の人生を変えるのか~20歳で井上有一作品(80万)を購入した書家・山本尚志氏の歩み

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アートは人の人生を変えるのか~20歳で井上有一作品(80万)を購入した書家・山本尚志氏の歩み

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現在、みじんこブログでは「現代アートと書」をテーマに書家・山本尚志氏のインタビュー記事を連載中。20歳の時に「自身は書家である」と宣言したという同氏。第2回のインタビュー本論に入る前に、氏の書家としての今日までの歩みに迫る。

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 2015年、クリスティーズ香港春季オークション「アジア20世紀及び現代美術」で井上有一の「花」が72万5,000香港ドル(約1,020万円)で落札された。同年、井上有一の取り扱いギャラリーであるウナック・トウキョウでの初個展を開催した書家・山本尚志氏。
 2016年にユミコチバアソシエイツ(東京)で個展「flying saucer」、2017年に個展「Speech balloon」をギャラリーNOW(富山)、個展「バッジとタオルと段ボール」Bギャラリー(東京)を開催した書家・山本尚志氏。今後も全国各地での個展開催を控えているという。
 留まることのない快進撃をつづけているような同氏だが、2014年の段階では貸しギャラリーで自腹を切って個展を開く一作家に過ぎなかった。ここ数年の間にいったい何があったのか。山本氏の書家としてのこれまでの歩みを追った。

参考リンク  クリスティーズ香港春季オークション、「アジア20世紀及び現代美術」が2日で51のアーティストのレコードを更新


山本尚志個展「バッジとタオルと段ボール」B GALLERY(東京)2017 建築家・谷尻誠氏とのアーティストトークの様子

――Bギャラリーでの個展のご成功、おめでとうございます。トークショーの写真を拝見しましたが、かなり人が入ってましたね。

(山本)はい。ありがたいことに定員いっぱいの30人の方にお集まりいただきました。

――2014年の下北沢の個展にお邪魔した時は、トークショーのお客さんは私しかいなかった。しかも15時からのところ15時半に行ったら、作家の山本さんもコーラを買いに行ってていなかった(笑)。

(山本)そうでしたね(笑)。


山本尚志個展「タワー」下北アートスペース(東京)2014

――その頃のことを考えると、今の変化は本当に劇的で。最近の活躍がすごいので、もともとそういう感じだったのかな、と思ってしまうんですが、山本さんはいつから書を始められたんでしょうか。

(山本)ぼくが小学校一年生のころ、4月の終わりくらいです。ぼくは幼稚園の時に左利きで。幼稚園のお遊戯会で保護者と一緒にごはんを食べる会があったんですが、お箸が使えない当時、左手でフォークを持って食べてたんです。そしたらね、後ろから知らないおばあちゃんが来て、ぼくが左手に持ってたフォークを右手に持ち替えたんです。母親も含めて本当にびっくりして。なにしろ、ぜんぜん知らない人だから。それを見て両親が、小学校に入ったら習字を習わせようと思ったみたいなんです。

――なるほど、では自分の意志ではなく?

(山本)ないない。昭和50年くらいの当時は、まだ習字塾やそろばん塾っていうのが近所にたくさんあったんですよ。ぼくが通ってたところも、ものすごく人が多くて。入ったら同級生がすでに入ってるみたいな感じでした。

―― 一般的な習い事の1つだったんですね。

(山本)そこで最初にやらされたのが、筆をもって横棒を引きつづける作業だったんです。2週間か3週間くらい。それが終わって教材を渡されるんですけど。やっと字が書けると思って楽しみにしてたら「一、二」だったんです、数字の。また横棒だと(笑)

――あはは。

(山本)その習字塾はとにかく鍛練させるところだった。とにかく線を引けという。楽しくとかどんどん自由に字を書いていいよ、というのはなかったんです。


ボンド墨試作(山本尚志書)

――なるほど。そこから一、二、三、四と進んでいったと。

(山本)実は、三、四、じゃなかったんです。三の次が五で。四がやっぱり難しいから。五で初めて転折(てんせつ)が出てくる。その後で四、六。それから七、八、九、十とつづく。その後はうかんむりの出てくる「空」かなんかだったと。だからプログラムは毎回チャレンジングで楽しめましたけどね。

――そうして書道を始めた山本さんですが、大学が東京学芸大学の書道科を出てらっしゃいますよね?

(山本)はい。当時、学芸大学の書道科というのは、日本の中でも書壇のご子息ご令嬢が通うようなエリート集団が通うところだったんです。その学校のパンフレットに「芸術家を養成します」って書いてあったんです。

――なるほど、芸術家を。

(山本)ぼくはその頃、文章を書くのが好きだったから、シナリオライターとかになれるっていう日本大学芸術学部の文芸学科にも惹かれていた。でも学習塾の先生に「私立の日大はやめて国立一本にしろ」って言われて結局、学芸大に行くことになった。今考えてみると、その時の先生は国立に行って欲しかったんだと思うんです。その塾は新しかったから、国立大に入れたっていう実績が欲しかったんじゃないかと。そういう大人の思惑が左右して学芸大に入ったのかなって気がしますね。
 それでもとにかく芸術関係の仕事がしたかった。あとは広島に住んでたので、東京に行っていろんな世界を見てみたいって思いはありました。

――書家になることを自分で選んだ、ということでしょうか?

(山本)最終的にはそうですが、その頃はまだ自分でもあやふやでしたよね。実際、大学に入っても、一、二年は一般教養が主で。一年生の時は楷書研究しかなかった。夏休みの宿題に孔子廟堂碑(こうしびょうどうのひ)っていう2000文字くらいある文字を2回書けっていう宿題が出まして。毛筆の小さい字で夏休み中ずっと書きつづける。だからみんな、ぶーたれながら教室に集まって字を書いてた思い出がありますね。

参考リンク  孔子廟堂碑(Wikipedia/全文2017字)

――しかし現在、書家であり、現代アートの作家として活動しているというのは、この時の大学のパンフレットにもあった「芸術家を養成する」というのがきっかけになっているんでしょうか?

(山本)大学で実際にやったのは一般教養をとって国語の勉強をして。字を書いた思い出が孔子廟堂碑しかないから、あんまり養成されてる気はしなかったですよね。
 ただ一度、楷書研究の授業の中で井上有一のビデオを見せられたことがありました。井上有一の「こころの時代」っていう番組。糸井重里さんがインタビューしてるんですが、これは有一が人生でたった1回だけ受けたインタビューなんです。それを見て感動して。冬に全国大学書道連盟の合宿が琵琶湖であった時に、帰りに京都でやっていた「大きな井上有一展」を見に行った。
そしたら、テレビで見た井上有一の作品がずらっと並んでるんですよ。そこに「噫横川国民学校」っていう東京大空襲のことを書いた大作があって。そこの前で思わず膝をついてびっくりした、っていう記憶があります。それが19歳の時でした。そこで初めて、自分にとって書道が芸術に結びついたって感じがありますね。

参考リンク  大きな井上有一展(京都国立近代美術館)

――何にそれほど驚いたのでしょうか。

(山本)迫力ですよね。目に飛び込んでくるというか。
 それまでは書道の古典、しかも本物ではなく写真で拓本を見て、コピーだから黒白反転しているのを黒い墨で再現するっていうことをやってたわけなんですよね。それが勉強なんですよ。それで字の形をとったり、筆の動かし方を学んだりするのが書道だと思ってた。そういうところに、いきなり筆遣いがめちゃくちゃで、なおかつ迫力ある筆文字の羅列が目の前に飛び込んできたらどう思うか。


山本尚志臨書、顔真卿「争座位稿(そうざいこう)」(右が原本)当時、山本25歳

――アートとしての書をそこに見た?あるいは現代アートとしての書を見たのでしょうか?

(山本)書を現代アートの世界に押し上げたのが井上有一だとぼくは思ってるんです。
 井上有一作品に出会ったことで、ぼくも有一の作品が欲しくなった。で、実際に買ったんです。20歳の時ですね。80 万円で「夢」という作品を買った。


井上有一「夢」

――20歳の時に?すごい思い切りですね。

(山本)本当は買うつもりなんてなかったんですよ。ウナックに行ったら「夢」が目に飛び込んで来て、これはもう買うしかないと。そこで近くの公衆電話に駆け込んで母親に言ったんです。「息子に中古車でも買ってやったつもりで、買って欲しいものがある。井上有一という人の作品なんだけど、これはぼくの一生を左右する作品になりそうな気がするんだ」と。

――すぐにOKが出たんですか?

(山本)はい。「お父ちゃんには私からよく言っておくから、買いなさい買いなさい、あんたがそんなことを言うのは初めてのこと。よう言うといてあげるけん」って。

――お母様もすごいですね(笑)

(山本)その後、毎日眺めるわけです、自宅で。そしたら他のもどんどんほしくなる。でももちろんお金がないから買えない。そんなことを友達に話したら、「自分でつくればいいじゃん」って言われたんです。そうか、と思って一字書を書いてた時期もありました。そしたらその友達にまた言われたんです。「井上有一は2人いらない」と。どっちなんだよって話ですよね(笑)。欲しかったら自分でつくればいい、っていうのと、同じものは2ついらないっていうのと。


制作風景(山本尚志氏のアトリエの様子)

(山本)その後、大学2年の時に美術科の友だちができました。大学は「芸術課程」書道専攻だから、美術も音楽もあって、合同授業で他のクラスをぐるぐる回るのがあったんですね。その美術科の学生に「書道って芸術じゃないじゃん」っていきなり言われたんです。

――書道が芸術じゃない?

(山本)はい。ぼくもびっくりして。なにしろそんなこと考えたことがなかった。井上有一も見てたし、芸術だと思ってやってきていた。だけど確かに今ぼくは、有一のマネをしても仕方ないし、何をつくればいいんだと困っている。もし美術のほうが芸術だとするなら、ぼくはもう書道科なんかやめちゃって、美術の世界に行こうかとも思ったんですよ。だけど美術の世界でやるにはデッサンとかができないといけない。ぼくはそんなことできないから、今さらどうするって思って、ほんとに途方に暮れて。

――何が突破口になったんでしょう?

(山本)当時のぼくの部屋は散らかっていて段ボールがいっぱいあったんです。その段ボールを前にペンのキャップを抜いて、さあこれから書くものとして、絵が出てくるのか書が出てくるのかっていうのをやったんですよ。そしたら「これは段ボールだー」っていう作品ができたんです。


山本尚志「コレは段ボール」1990 ©Hisashi Yamamoto, Courtesy of Yumiko Chiba Associates

――現在までつづく段ボール書き作品の始まりですね。

(山本)その後、知り合いになった人がうちに来た時に、これはいったいなんだと言われまして。これはぼくがこの間書いた作品で「これは段ボールだー」っていう作品なんですと。裏をめくったら「これはそのウラー」って書いてある。
その人はびっくりして「あなたは天才だ」って言ったんです。それを聞いてぼくは、別に天才とも思わないし、そもそもこの人はいったい何をしてる人なんだと思ったら、その人は井上有一をずっと追っていたアートコレクターだった。

――井上有一を良いと思ってた人が、山本さんの段ボール作品を良いと?どうしてそう思われたのでしょう?

(山本)結局、井上有一がやってないことを、ぼくがその場でやってしまったっていうことではないかなと。20歳の頃だったんですけど。その作品はその方が陶芸雑誌の「かたち」に載せてくださった。ぼくにとってはそれが美術界への最初のアプローチってことになった。

――そのコレクターさんのお名前を教えていただくことはできますか。

(山本)はい。徳田泰清(たいせい)さんという豊橋の料亭の2代目の方で。美術にうつつを抜かしてそこを追い出されてしまったらしく、今はもう行方不明なんです。ぼくはまたお会いしたいんですけどね。だからここで名前を出したら誰かが教えてくれるかもしれない。

――そうですね。どなたかご存知の方がいたら、ぜひ、ご連絡をください!


陶芸誌「かたち」記事・徳田泰清

――では、美術専攻のご友人に「書は芸術じゃない」と言われるまで、山本さんは「書が芸術だ」と思ってたんですか?

(山本)思ってました。いたんですけど、書道の芸術の定義が結局、古典なんです。つまり、書道の古典の名品が芸術なんです。もともと亀の甲羅や牛の骨に書いてあった象形文字みたいなもの(甲骨文)が筆の時代になって装飾的になって、そこに芸術性を見出すようになったというのが書の芸術なんです。そこに書聖と言われる王羲之(おうぎし)が出てきて。その後で顔真卿(がんしんけい)という人が出てきて、まったく書き方を変えた。筆を斜め45度に書いてたのに、90度で曲げる直筆(ちょくひつ)で書くようになった。
 そういう大胆な変化を重ねながら、彼らの筆文字の歴史と言うのがどんどん栄えていった。彼らの昔の書き文字の変遷を見て、ぼくらは芸術だと認識してたわけです。

――書道家の考える「芸術」は、昔の人の字に対する考え方を学ぶことであったと。

(山本)それは何かを記録として残すための歴史なんですけどね。そういう意味では、現代に書道というものが必要ない。書を公式文書として残すなんて、どこの役場でもやってない。今はパソコンやプリンターの時代。すべてフォントに変わってしまったと。でも当時はそれが彼らの公式文書だった。そういう在り方が今と昔で大きく変わってしまった。

――現代の書道の現場では何をやってるんでしょう?

(山本)古典の再現をするのを臨書と呼ばれていますが、その臨書を盛んに行うこと、あるいは臨書をマスターした師匠みたいな人が、自分の文字を真似させるっていうのがいわゆる書道になっていますね。ぼくは当時、書壇の師匠が弟子を集めてっていうんではなく、書道の古典を学ぶことが芸術だと思ってたんです。
芸術鑑賞というならそれでもいいんですが、古典をただ写して書く「臨書」という仕組みがあったので、それを批判なく受け止めていたんです。臨書が上手に書ければ、書道の中の芸術である、つまり書家であると。自分はそういう認識でいて、井上有一もその延長上にいるくらいの認識でいました。実のところ、それはぜんぜん違ったんですが。

――山本さんが芸術としての書をやり始めようと考えたきっかけが、その友人の「書は芸術じゃない」という言葉だったのでしょうか?

(山本)いや、まだ書道が芸術か芸術じゃないとかいう段階ですらなく、自分はいったい何をしたいんだっていうレベルですね。段ボールを前に自分はいったい何を書くのか、とやった時に、書じゃなくて絵が出てきたら書道をやめようってくらいの段階です。書道が芸術としてのレベルとして存在するんだと思ってそれをやったわけではなかったんです。そんな段階のぼくを見つけたのがさっきの徳田さんという方で、この人に言われなかったら、ぼくが今やってる「モノにモノの名前を書く」っていうスタイルをやってなかったと思いますね。
 なんとなくやったことを「お前は天才だ」なんて言われたら、やっぱりその気になるじゃないですか。これはそんなにすごいことなのかな、と思ってたら、やっぱり書きつづけられるし、シンプルなんですけど書く理由がそこに存在しているわけですよね。


山本尚志「底」

――では最初に認めてくれた徳田さんという存在に会えたっていうのが大きかったということですか。

(山本)はい。そこで徳田さんに勇気づけられ、芸術とはなんなのか、というのを初めて知ったという感じです。一度、彼にお寿司やさんに連れて行かれたことがありました。そこで、こんなことを言われたんです。「ぼくは芸術っていうのを、ここにある割り箸をあそこの板前さんが持ってる包丁だって言い張って、包丁に見せることだと思ってるんです」って。その時は、どういうことかさっぱりわからなくて。

――今ではその意味が分かるようになったんですか?

(山本)墨で紙に筆文字を書いたものが、100万円くらいで売られる。だから、割り箸くらい価値のないものが、有名なブランドのフルセットの包丁と同じ価値を持つってこと。それくらい美術的なすごい価値を持つものなんだっていうのを徳田さんは言いたかったんだと思うんですよ。芸術が、筆とか紙とか墨とか安い素材でできているものが、ものすごく莫大な価値を生み出す金融商品だというのも、同時にそこで教わったっていう感じですよね。

――特に書は、一点にかかる制作時間がものすごく早い。もちろん、その一点をつくる前の準備段階で、筆の使い方を習得するまでの時間、自分にあった墨を選ぶまでの時間などは膨大です。ピカソは版画や挿絵も含めると生涯で15万点ほどの作品を遺しています。どんなに多作であっても作家一人が生涯につくれる作品の数は決まっている。そういう意味では芸術作品は希少価値のある「商品」と言えますね。


制作風景(山本尚志氏のアトリエの様子)

――私が山本作品を初めて見たのが2011年第5回天作会での「カーテン」だったのですが、正直なところ、なんだかもう全然分からなかった。私は書家ではないのですが、書家の方たちから見たら、山本作品はすぐに「すごい」と分かるものだったのでしょうか。

(山本)2012年に北京に行った時に、席上揮毫(せきじょうきごう/大勢の前で文字を書くこと)があったんですが、そこでぼくはいつものように「マシーン」を書いたんですよ。そうしたら、日本の重鎮レベルの書家の方に「お前は書を書きに来たんじゃなくて、恥をかきに来たのか!」と叱られましてね。もう涙目になってしまいました。こちらはいつもと同じように書いたんですが。その集まりは、前衛書道の集まりだったのに、他の日本人の代表の方々は、ものすごく達筆な字で書かれていたんですよ。


席上揮毫の様子(北京)2012

(山本)中国代表の書家さんは、ぼくの「マシーン」を受け取って満足そうな顔でとても喜んでくれて(写真右)。この後ハグまでしました(笑)

――その北京から3年後、2015年にウナックでの個展を開催し、そこから歴史が動いた、と。


個展「マシーン」ウナックサロン(東京)2015

(山本)私と小俣さんはウナックトウキョウで出会ったアーティスト仲間だと認識していますが、画家である小俣さんの方がウナックでの個展は私よりずっと早かったじゃないですか(笑)

――私のウナックトウキョウでの初個展は2013年。初めて山本さんにお会いした時に、なんで個展開催になったのか、という経緯を聞かれて「1年前に海上さんとお会いして、その後呼び出されるたびに作品を持っていったら、個展をやろうという話になった」と答えた。その時、山本さんが「そっか。みんなすごいな」とさみしげに言ってたのを覚えてますよ。

 ただその頃の私は現代アートがなんだか全く分かってなかった。それよりも「意味分かんないことをしてカッコつけてる人たち」だと懐疑的に見ていました。その「よく分かってない」状態のせいで実際に逃したチャンスも多くあります。
 こうして改めてお話を伺ってみると、2012年に聞いたことと、今、山本さんがお話しされていることにほとんど変わりがない。これがすごいことだと思っています。つまり作家としてチャンスが来た時に、いつでも羽ばたける準備ができていたんじゃないかと。

 そこで、書家・山本尚志インタビュー、「書家の強みと日ごろ意識すべき具体的なトレーニング」をテーマにした第2回では、作品作りだけでなく、作家としての心構えについてもお伺いしていきたいと思います!
次回もお楽しみに!

合わせて読みたい  書家・山本尚志氏へのインタビュー「第1回/書家が現代アートの舞台に立つ上でやるべきこと(前編)」 書家・山本尚志氏へのインタビュー「第2回/書家の強みと日ごろ意識すべき具体的なトレーニング(前編)」

山本 尚志(Hisashi YAMAMOTO)プロフィール/書家

1969年広島市生まれ。幼い頃に左利きを右利きに直すために習字塾に通ったことをきっかけに書道の世界へ。
東京学芸大学の書道科在籍中に井上有一の作品に出会い、20歳の時に自室で自身は「書家」であると宣言。また同年、ウナックトウキョウで井上有一の「夢」を80万円で購入。同ギャラリーで有一のカタログレゾネ制作に携わる。
2015年にウナックサロンで初個展「マシーン」を開催、2016年にユミコチバアソシエイツ(東京)で個展「flying saucer」、2017年に個展「Speech balloon」をギャラリーNOW(富山)、個展「バッジとタオルと段ボール」をビームスのBギャラリー(東京)で開催。 米国のアート雑誌「Art News」でも世界のトップコレクター200として何度も紹介されている現代美術コレクター、佐藤辰美氏。氏が社長を務める大和プレス編集により、2016年には作品集「フネ」(YKGパブリッシング)を発表。

参考リンク  KEGON GALLERY 山本 尚志(Yumiko Chiba Associates)


個展「マシーン」ウナックサロン(東京)2015

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みじんこは、書家・山本尚志さんに注目しています!ヽ(=´▽`=)ノ

みじんくん と みじこちゃん

「マシーンっ」
「段ボールっ!」

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