「アート」と「現代アート」の堺がいまいちはっきりしない日本。ぜんぜん現代アートの体をなしてないものが「現代アート」の名のもとに活動しているのを見ると、単に冠をつけることによって、アートの歴史の中に紛れ込もうとする打算すら感じる。美術館に通う人口の多さが世界でもトップクラスでありながら、そもそも日本で真剣にアートを見ている人ってどれだけいるのだろう。惰性でアート通いしている程度で知ったか自慢しようとするエセ目利きどもを軽く駆逐してみました。
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資格がないから誰でも「アート通」ぶりやすい
日本人はアートを見に行くのが好きな人種だ。そんなところに生まれたばかりの小鹿ちゃんみたいなアーティストがいれば、「分かった風」を装いたい人たちの慰み者になるのは知れたこと。アートだけで食えてない無名の作家が、日本でアート活動をしつづけるのはキツイ。日本は稼げてないものをやり続けていくのを許容する土壌がない。特にアートの場合、「アートをやってます」と言ってるにも関わらず、「で、何やってるの?」とお金を稼ぐための職業を聞かれるのが定石だ。
エセ目利きの存在は、社会にとってなんのプラスにもならない。自分がアート分かってる自慢をしたいという欲のために、新人アーティストの自信やモチベーションを奪っていく。そこで今日は、よくあるエセ目利きの特徴を羅列してみた。
1)感性に従ってつくるのが「良い」と思ってる
最初はコレ。もうコレは日本のアートあるあるですよね。日本特有の素晴らしいアート神話、感性論。
「楽しく描いてるのが一番だよ!」
この一言で片づけられると、現代アートのおもしろい部分、今を生きる時代性を圧縮してつぎ込んでいるのがまったくスルーされてしまう。その妄信ぶりは、もはや宗教レベル。この宗派に属している人に自作を説明しようと思っても、全く聞いてもらえない。彼らの意見が変わることは絶対にないので、説明に時間を使うのはやめたほうがいい。感性で描いてますってとりあえず言っとけ。
2)ビッグネームだけを語る、知ってる名前を自慢する
「うちにはウォーホルのポスターがあるの」「草間彌生が好きなの」
確かにウォーホルもクサマもピカソもいいけど、すでに評価の定まったビッグネーム。誰でも知ってるビッグネームのことしか出さないのは、自分で発掘してない証拠。
そもそも名前を知ってるからすごいわけでは全然ない。私も今までさんざん言われました。「えー、そんな有名な人も知らないの」と。たぶんこれからも言われ続けます。世界にはアーティストは山ほどいて。大学の先生、有名な賞を獲った、有名ギャラリーで展示したなどなど、すごいと呼ばれている人は死ぬほどいます。その人の周りではすごいと言われてるかもしれないけど、海を渡っちゃえば、ほとんどの人は全く知られてないですよ。
たとえばですけど、Tara Donovanっていう作家さん知ってます?私の好きな作家さんなんですけど。たぶん、ほとんどの方は知らないですよね。ニューヨークのPACEギャラリーでも個展をしていて、作品が100万円でバンバン売れてるような人です。その人の知ってるアーティストを数人知らない程度で、まるで全く勉強してないみたいに言われちゃうのは、ほんとにトホホ。そもそも本人が勉強してるかどうかを、その人ひとりを知ってるか知らないかで判断しちゃう人ってどうなの。
3)ダメと思う理由を説明できない
個人の好き嫌いは作品の良し悪しとは関係ない、以上です。私は映像作品全般が好きでないので、ほぼ見ないのですが、それはその作品のクオリティが低いわけではなく、好き嫌いの問題。
「この作品はダメだわ」
と言い切るのであれば、「なぜダメと思うのか」その明確な理由が必要。そうでなければ好き嫌いの問題なので、子どものピーマン嫌いと同じ。ピーマン自体のクオリティに影響はないのです。
ちなみに私が「ダメ」と言う作品は「どこかで見たことがある」「作為的過ぎる」「作家の挑戦が感じられない」「長期間見ていると飽きがくる」です。分からないものは、ダメではなくて単に「分からない」
4)権威の言葉を借りる
「グランプリを獲った」「ニューヨークで展示した」「100万円で売れてる」
権威に代弁させるっていうのは低レベルな説得技術の一つで、私もよく使っています。ガタガタ説明してても埒が明かなそうな時に使うととっても便利。よく分かってない人ほどこれで黙ります。
しかし、これしか言えないってことは自分で判断できてないことを分かりやすく露呈してます。
5)作家の意図を聞こうとしない
現代アートの作品は、作品そのものを見てすぐに素晴らしいと分かるもの以外に、意図を聞かないとまったく分からない作品があります。下の写真がその例。
(分かりにくいことを強調するために、1作品のみをピックアップしています。展示は空間全体をつくるものなので、全体を見るとどちらもかなりおもしろい。展示空間全体とその1点の関係性を見るのも現代アート鑑賞の魅力なのです)
Cherry and Martin – SUPPORTS / SURFACES
日本人は空間全体として展示をとらえるのに慣れてないです。エセ目利きほど、空間との関係性を見ずに、作品一点ごとにダメ出ししようとする。分からない、汚い、椅子並べただけじゃん、ゴミっぽい。自分の理解を超えているものをダメと断罪してしまう前に、作家やギャラリストに話を聞きましょう。自分にとって良いアートは、美しい物とは限らない。ダメと決めて見向きもしなかった物が、自分の中に大きな波紋を残すかもしれない。その可能性を自ら排除。
アーティストの育ち方
現代アートの作家が成長していく中で、最も大事なことは様々な意見にさらされることだ。議論ができればなお良い。これが良い、あれはダメ。議論によって作品を見返し、ブラッシュアップしていく。ただ、これをやっていいのは、自分の作品のコンセプトがはっきり決まってから。それができていれば、今は作品が追い付いていなくても、叩かれているうちに確実に伸びていく。やっちゃいけないのは、コアに迷っている時に人の話を聞くこと。この状態の時は、エセ目利きの餌食になって作品が迷走しやすい。少なくとも、現代アートをやるのであれば、意見を聞く相手をちゃんと選んだほうがいい。
アート作品には、その作家が生きるライブが詰まっている。筆致や色の重なり、髪の毛やほこりが画の中に落ちて塗りこまれたこと。傑作の存在は観光資源にもなって、その後、何百年に渡って国に恩恵を与えていく。その可能性を「そんなんなるわけないじゃん」って笑う人たちの、アート分かってるって言いたい欲によって、摘まれないことを祈るばかりです。
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日本のアートコンペで審査員を務めるのが「現代アーティストおよび現代アート関係者」じゃないことがあるのも事実。もしそのコンペが「現代アート」と銘打つのであれば、審査員は少なくとも現代アート関係者のみで構成すべき。そうじゃなければ、果たしてどうやって「現代アート」コンペとしての質を担保するんでしょうね。
みじんこは、エセ目利きをぶった切ります!ヽ(=´▽`=)ノチョキチョキー